原田のゴミタメ。

私が語ることは、すべて接頭に「私にとって」が与えられねばならない。我儘で、自分勝手で、醜く幼い私の誇大妄想。私的な論理の飛躍は決して万人に敷衍されてはならないが、万人が私の妄想を否定したとき、もはや私には生きる必要がないと思われる。せつに、そう思うのである。

卑屈な自己認識

 

あらゆる穿った見解、呪詛的否定、風刺と皮肉は、それらが自身になんらかの絶対的な正当性を見出し始めたあたりから、単なる(というよりは厄介な、対話不可能な)陰謀論に堕していく。

 

およそ徹底的でない人間、自身の信仰を極限まで実践することのできない人間、完璧でない人間、つまり人間らしい人間。

そういった人間の主張は、あらゆる意味において、およそ「正当」ではありえない。呪詛や憎悪、殺意や卑屈が、少なくとも至極妥当な所感でありながら、社会規範としては破滅的であるように、もろもろの個人的倫理、自己中心的宇宙観は、自己認識を忘れたとたんに肥大を始める。肥大する自己はそれ自体なんら悪ではないが、自己認識を忘れた自己の肥大は他者を巻き込む陰謀論に堕していく。そしてそれは、見るに堪えないものだ。

 

少なくとも私にとっての平沢進は、もはやそのようなものになってしまった。2010年代後半まではまだ「私は与太話でできている人間ですから」という自己認識、自己被虐があったわけだが、今になってはそれも見る影がない。

 

 

あらゆる主張、正義、信念は、そうした自己被虐を失った途端に胡散臭くなり、狂信的になり、見るに堪えなくなる。「建前」的であることを認めない倫理は、カント的ムーンレイカーに他ならないし、反証と自己批判を受け入れない急進的態度は、ラディカル・フェミニズム、もとい陰謀論にほからない。すなわち、自己と自己に賛同するもの以外の存在をおよそ「人間」とは見做さない立場に他ならない。

 

少なくとも自身が立脚する地点が、どうしようもなく盲信にならざるを得ないという自己認識。これは失うべきではないだろう。現実で現実的に生きていくにあたり、人は前提なしには何もできず、盲信なしには呼吸すらままならない。懐疑的な人間にしたところで、その営みは盲信的足場を拠り所にした無限の下降であろう。

 

この意味では、かつて私の友人が言っていた、「科学も一つの信仰だ」という主張も理解できなくはない。なぜなら、突き詰めれば前提=盲信に行き着く営みとして、科学も例外ではないからだ。

 

あらゆることが盲信に基づく。

 

私は未熟な青二才であるわけだから、この卑屈な自己認識さえ共有していれば、異なる信仰の盲信者であっても対話くらいは可能ではないかと、そう楽観するのである。