原田のゴミタメ。

私が語ることは、すべて接頭に「私にとって」が与えられねばならない。我儘で、自分勝手で、醜く幼い私の誇大妄想。私的な論理の飛躍は決して万人に敷衍されてはならないが、万人が私の妄想を否定したとき、もはや私には生きる必要がないと思われる。せつに、そう思うのである。

教室棟の手記—自己を肥大させましょう—

自己とはそもそも肥大化するものではないかしら?

 

肥大する自己はしょっちゅう惨めな病理と見なされるけれど、我々が生きる「日常」なるものはそもそもそうした「肥大化した自己」なしには成り立ちえないのではないか。

 

「自己」が幻想であるという話はとりあえず置いておくとしよう。そもそも幻想か現実かだなんてどうでもいい話だ。幻想だったらダメなのかい?いったい誰が「ダメ」を宣言する権利をもっているんだい?

 

で、だ。

 

我々が腰を落ち着ける現実の日常をなす風景は、個々人の肥大化した自己なしにはありえないように思われるのだ。

「日常」とは何か。他者を見る苦しみ、他者に依る苦しみ。誰もが不快な奴を見て気分を害し、それを誹謗し中傷し、あるいは「強い」人を見て劣等感に駆られ、焦り呪いながら勤勉する。そうした一種愛おしい「日常」をなすものは何か。それこそが、鮮烈な自己である。

 

人が人に惹かれるのは人が人だからであろう。自己のない人間なんて存在するものか。ある人の鮮烈な自己が「私」にも分かるように現前して初めて、「私」は相手を不快に思い、あるいは焦がれ、嫉妬する。

これは「私」自身でも同じことだ。「私」がどこまでも膨らんで、相手の領域にも重なっていき、その重複部分で軋轢や信頼が生まれる。自己が重なって初めて人間の、我々の「日常」が始まる。そのためにはまず、自己は肥大しなければならない。

 

もちろん自己と自己が重なり生じる軋轢は不快なものだ。それは鬱陶しく呪わしい。しかし、呪わしいことが果たして「悪い」ことなのか?いいや。そんなことは断じてない。

不快とは、呪いとは、生物体に生じる全く健全な応答であり、その帰結が問題になるとしても、それ自体が禁忌になり得る訳がない。そんなことがあるとしたら、人間の否定だ。生物の否定だ。

 

不快は行為を引き起こす。呪いは情念を引き起こす。情念は人に夢を見せ、人は熱にうかされたように行動する。

何かに焦がれ、縋りつき、めくるめく「日常」コントラストが生まれる。喧騒が聞こえ、どよめきと子供たちの罵声が飛び交う。沈黙もその中で際立つ。

 

仮に自己が「肥大しない」世界を考えてみよう。

そこでは誰もが均等に整列し、統制的で、見栄えが良い。

小綺麗で「健全」な、分別の良い人間がものわかりのよい笑顔で「コミュニケーション」する。

わお。素晴らしい。

 

けれども、それは少なくとも今我々の周りに在る「日常」ではない。自己の「肥大しない」世界で誰が下卑た嗤いをこぼすだろう?誰が酔っ払って猥談を叫ぶだろう?誰が駅のホームに飛び込むだろう?誰がいじめられて死ぬだろう?

 

汚らわしく醜いものの吹き溜まりこそが我々の「日常」だ。それはきっと有史以来変わらない感想であっただろう。あるだろう。豊かになった人間が何に執心するかといえば快楽の増幅であり、それは自己の肥大と同義だろう。

 

こんな「日常」はお嫌いかい?

嘘だね。

我々が執着するものこそそうした「日常」だ。

静寂を好む所感すら、喧騒の醜さなしにはありえない。言うまでもなく、我々が盲信して安住し、後ろめたく笑う場こそがこの「日常」に他ならないのだ。愛するというならば、我々はそうした「日常」を心底愛している。

 

そうした「日常」をはぐくむのが「自己の肥大」だ。

それが幻想でも構わない。いったい、意味づけられたものはすべて幻想なのだから。

「自己」というものが膨らんでぶつかり合い、擦れて腫れて噴出した膿が「日常」なる苗床の肥料になる。

 

さっきみたように、自己の「肥大しない」世界とは全く「日常」的でない何かだ。皆が小綺麗な区画、細胞に閉じこもっているようなものだ。いや、細胞ですら手をつなぐ。それは小綺麗な素晴らしい独房だ。人はそこで生まれそこで死ぬ。完結したプロセスにおいては呪詛も何も生まれない。そんなものはつまらない。

 

だからこそ、我々は不快なほどに自己を「肥大」させなければならない。なに、難しいことではない。自分が満足いくように着飾ってすら他人を不快にできる。簡単なことだ。つまるところ我々はただ生きればい。遮二無二に、顧みず、鮮烈に。

 

さあ、自己を肥大させましょう。