原田のゴミタメ。

私が語ることは、すべて接頭に「私にとって」が与えられねばならない。我儘で、自分勝手で、醜く幼い私の誇大妄想。私的な論理の飛躍は決して万人に敷衍されてはならないが、万人が私の妄想を否定したとき、もはや私には生きる必要がないと思われる。せつに、そう思うのである。

自己を知れという要請について

 

「己を知ること」、少なくとも「自己を知ろうとすること」は確かに重要だ。無意味ではない。しかし、これほど答えを「確定」させることの虚しいテーマも他にない。

 

だってそうだろう。一体我々は何のために己を知ろうとするのだろうか。おそらく自発的に「己を知る」という文言を発する多くの人は、それによって自己改造ないし自己発展、啓発と有意義な前進を遂げるためにそう発信するのだろう。しかし少し考えれば、これが全く意味不明であることがわかる。

 

というのも、そのような「目標」をもって自己を探索するということ自体が、既にして「自己を知る」という営みを破綻させているからだ。そこで見出される自己とは、そのような目標に資するような、あるいは「矯正ありきの」、さながら否定待ちの自己でしかない。

 

だいたい、目標がまずあり、そのために探索される自己が、どこまで「本来の」自己だと言えるのだろうか。このように言うと、そもそも「本来の自己」などあるのかという文句が飛んでくるだろう。しかし、全くもってその通りなのである。

 

本来の自己というものが、そもそもにしてナンセンスな存在なのだ。自己というのは、今ここにあって何かを欲する「私」以外の中ものでもない。それ以外に自己などない。本来の自己など、沈思黙考して探索すべき、意味のある自己など存在しない。

 

では、世にあって「自己を知れ」と言われるときの「自己」とは一体なんなのか。思うに、それは都合のいい仮面、なりきって有意味に生きるための依代、要は、依存できる耳触りの良い概念であれば何でもよい何某かであるのだ。もちろん、この話は善悪とは関係ない。

 

だから、「自己を知れ」というのは、「目的に合致する都合の良い自己像を作れ」「そのために『生きる』ことができるような理念を人造しろ」という意味でしかない。この「自己」なるものは、要は「生きがい」でも「生きる意味」でもなんでもい、依存に足る「それっぽい」概念であれば何でもよいのだ。

 

故に「自己を知れ」という要請は、何か他に目標があって問われる限り、それ自体としては虚しいだけの概念だ。それを問う者のほとんどが、「本来の自己」などハナから求めていないのだから。少なくともそこで見出される自己は、方向性、つまりは強いバイアスの元に取り出された、少なくとも一面でしかない。もちろん、生きるに足ると個人的に信仰できるような、あるいは、非常に快く心強い社会的仮面を鋳造することは、それはそれで有意味で、必要なことではある。しかしそれなら、もっとそのようなことを、「自己」などという曖昧な誤魔化しを交えずに探索すべきだ。誤魔化さずとも、何かを纏って生きること自体、特にやましいことではないだろう。

 

ところで、まさに「自己を知りたい」という目標を持って臨めば、この文字通りの問いは有意味なものになりうるのだろうか。これも怪しい。知ろうとして知りうる自己など、その都度方向性を持って繰り出される「問い」を満足させる「側面」でしかないだろう。そしてそれは、各瞬間に相対的なものでしかないだろう。

 

そしてそこで得られる「答え」に満足してしまう時点で、彼は自身が求めていたものが「本来の自己」などではなかったことに、いやがおうでも気付かされるのだ。
かように、「本来の自己」なるものを知ることは虚しい営みである。

 

あるいは、ひょっとすると、「本来の自己」というのは、問わずとも「俺はこういうものだ」と気付かされる事柄の集合であるのかも知れない。それは日々の挫折や不快、あるいは快の場面に、はたと「我に返った」場合にのみ、「わからされる」ものでしかないのかも知れない。

 

少なくとも言えるのは、それを知るためには、生きるほかないということだ。これも一つの脅迫である。