原田のゴミタメ。

私が語ることは、すべて接頭に「私にとって」が与えられねばならない。我儘で、自分勝手で、醜く幼い私の誇大妄想。私的な論理の飛躍は決して万人に敷衍されてはならないが、万人が私の妄想を否定したとき、もはや私には生きる必要がないと思われる。せつに、そう思うのである。

2020-05-01から1ヶ月間の記事一覧

メモ

学問の檻のうちにある思想は、如何様にも解剖できる。徹底的に暴かれ死体と化した上で、一般に膾炙する。 しかし檻を抜け出て運動と化した思想は、もはや手に負えない猛獣であり、人々はまず恐怖でもってそれらを駆逐せんとする。 無学ゆえ断言はできないが…

雑記

人情として、なんとなく哲学者には達観していて欲しいと思ってしまうのだけど、というか、哲学者というものはいざ伝記を紐解けば、達観しているというか、別の次元でぶっとんでいて、「はえー」となるわけだけれど、実際同時代に生きた人からすればそんなこ…

「社会に感謝せよ」

「社会に生かされているのだから感謝しなさい」という言説は,内心の自由として認められはせよ,決して強制にはなりえない. そもそも「人が生きていける」というのは,社会が社会であるための必要条件である. 逆に言えば,「生かされる人が存在しているお…

人を恋愛に駆り立てるものは何だ。 動物的な、いわゆる「本能」か、 あるいは心委ねる安息を求める衝動か、 あるいは「それが普通であり当然だから」という、劣等感に対する恐怖か。 第一の場合は肉体的恋愛であり、 第二の場合は精神的恋愛であり、 第三の…

メモ

私の全ての認識はあらゆるものを闘争の相の下に見ることに基づく。 いずれこの根幹にも懐疑を向けねばならない。 悪意は悪があるからこそ成立する。 ならば、悪そのものに悪意はないのではないか。

将来私がどこに住うのか、現時点では皆目見当もつかないが、少なくとも、少なくともルーツがあの素晴らしき弘前にあるというのは、救いである。

妄言。

集団の努力を感動的に、美談的に、健全的に、否定が許されないほど正当なふうに絶賛する人間は、個人的な努力に対しては白痴の如くである。 むしろ、その「神聖な」集団的努力のために個人的努力を愚弄し潰しにかかる狂人である。