これまで存在を規定していた「芯」のようなものがすっかり抜け落ちたような、あるいはたんてきに憑き物が落ちたような有様で、彼は窓際の席に腰掛けていた。
声をかけると、彼は力なく微笑んで、痩せ細った腕を振って私を席に誘った。
窓の外は昼間にかけてのひだまりがゆっくりと午後の静かなまどろみを帯びつつあり、それは穏やかな午後というのなら何よりも午後めいた雰囲気を作り出していた。
私が腰を下ろすと、彼は頬骨の浮き出た表情をこちらに向け、「はは」とため息のように破顔した。
「どうしたんだい?こんな時間に呼びつけるなんて」
「いや、悪いね。しかし、ぼくはもうどうして良いのかわからなくなってしまったんだ」
「いったい何があったんだ?」
これだよ、と言って彼は文書が包まれた封筒を投げてよこした。
「終わったのだ。ぼくの世界が。ぼくという在り方と、ぼくの愛する世界像が」
すなわち、意志の不在。
あるいは、意志の否定。
そこに記されていた内容は、人間の意志に関する認知科学的な研究成果であり、今に全世界に公表されるであろう「人間の意志」の幻想性を告発するものだった。つまるところ、我々の意識は我々の行動を規定しない。我々の意識は行動を引き起こすニューロンの発火と同時に生じるいわば副次的な現象であり、人間の全ての行動は、あるいは生物の全ての行動は、その意識が意志することによって生じるのではなく、意識と無関係に、意識の力の及ばぬところで一切生起するという「事実」であった。
「意志がすべてを規定する」「何よりも鮮烈な『私』が行動の指揮者である」
彼の世界、彼の在り方。
それは今や非科学的な幻想であり、数ある非現実的な「錯覚」の一つにカテゴライズされてしまったのである。
「もはやぼくはぼくではない。ぼくの依拠するものはすべてが嘘になってしまった。ぼくの愛する世界は、今や宗教上の図像になってしまった。世界の事実に目を背けて塗り固めねばならない、信仰の対象になってしまった」
発掘された木乃伊が物を語るとしたら、おそらくこんなであろう。彼は一言一言をかみしめるようにして言葉を発した。まるで今一言を紡ぎ出すたびに、自分がはっきりと崩れていくことを確かめるかのように。
「「ぼく」という物は存在しない。「ぼく」が何をしようと、それは「ぼく」が起こしたものではない。「ぼく」は「ぼく」によってはどうにもならずに展開する一切を、ただどうすることもできずに観測するだけだ。そして現実にあって、「ぼく」はその一切を受け止めねばならない。もはや受け止めるべき基盤などないのに、「ぼく」は薄氷よりも希薄になった「ぼく」でもってすべてを引き受けねばならない。そのうち「ぼく」は要らなくなるのだろう。そのうち「私」は不必要になる。「私」は副産物だ。主体ではない。主体?主体とはなんだ。もはや主体すら要らないのだ。人間の行動を規定する「主体」とは、今やどこにもないのだから。それは錯覚だ。それは嘘っぱちだ。いずれ意識は抹消される。今ここに居る「私」は、「君」は、いずれ消え失せてしまう。なぜなら必要ないからだ。「意識」がこのようであるならば、円滑な社会において「意識」は何処までも後退する。きっと意識が「私」を主張すること自体が悪徳に数えられる日が来るだろう。私が好きなもの、私が是とするもの、すべてが円滑な社会運営のために取り上げられて、後にはただただかつて「私」を夢想していた抜け殻が残るだろう。それはきっと「私」よりもうまく一切をこなすのだ。「私」が嫌うような笑みを浮かべて、「私」が嫌うような健全の和に加わって、「私」が嫌うような踊りを嬉々として踊るのだ。そこで喜んでいるものは誰なんだ?「私」ではあるまい。そこで笑うものは、そこでコミュニケートするものは、いったい誰なんだ?「私」でなければ誰なんだ?「私」は何処に行った?「私」はどうなる?今ここに居る「私」は、一体何なんだ。「ぼく」はどうすればいい……」
そう言うと、彼は力なくすべてをソファに委ね。ぼんやりと空を見上げるのだった。
「午後のひだまりが美しい。ぼくはこの時間が好きだ。何が好きかって、もちろんこの今の一瞬が心地良いから好きなんだが、何よりこの風景が好きなのだ。「ぼく」が居て、こうして腰掛に体重を委ね、本当なら安心してひだまりを浴びている。この情景が好きなんだ。「ぼく」が。そいつが何者かもわからない一個の「ぼく」がめくるめく世界を経験する。微笑ましい冒険譚だ。それは悲劇にも喜劇にもなる。「ぼく」がこうして安心して「ぼく」のうちに坐しているからこそ、物語が展開される。それは平凡であるかもしれない。それは波乱万丈であるかもしれない。平凡であるならぼくは惨めな慟哭のうちにすべてを愉しみ、波乱万丈であるならぼくは焦燥とスリルに身を焦がしながらすべてを愉しむだろう。愉しいのだ。「ぼく」が居る世界は。そこは愉快な理不尽と心躍る苦闘に満ち満ちている。「私」を中心とした快不快の価値観が姿を変えて一切を判断するディストピアだ。考えるだけでワクワクする。心が躍る。「私」が踊る。それはきっと素晴らしい……。けれど、けれど全部嘘になってしまった。全部幻想に、全部嘘八百になってしまった。もはやかつての現実は馬鹿げた戯言になってしまった。ああ——」
彼は嗤いながらこちらを見た。それは今の今まで想像していた素晴らしい世界に心ときめき、しかし夢の佳境で覚めてしまったかのような虚脱感に包まれた表情だった。
そう、夢。
彼の愛する世界は徹底的に「夢」と定義されてしまった。ありうべきもの、ついさっきまであり得たもの、ついさっきまでその手に握り、愛でていた現実が、世界中の真理によって「夢」と規定されてしまった。彼は馬鹿ではない。少なくとも彼は愚かではない。人が見れば惨めなムーンレイカーにしか見えないだろうが、しかし彼は少なくとも何が正しくて何が正しくないのかの判断がつくほどには賢しかった。今、彼はもがいているのだ。崩れかかった塔の上で、まさにつかみかけた月にめがけて手を伸ばしながら。夢が夢だと気づいた瞬間、事態は一気に急転する。あるところまで傾いた船が、もう転覆するほかないように、そこに至ってしまったなら、もう覚めるしかない。どれだけしがみつこうとも、どれだけ戻ろうとも。
彼にはそれが痛いほどわかっていた。彼にはそれが逃れようのないことだとわかっていた。だからこそ、どうして良いか分らないのだ。目覚める先に、覚えがないから。
彼は愚かであればよかった。彼は真に狂っていればよかった。彼は——
「白痴」
「ん?」
私がふと発した単語に、かれの眉が反応した。縋るような眼をこちらに向けた彼に、私は繰り返した。
「君は白痴であればよかった」
「何を……。いまさらのように……」
「いや、いや、そうとも限らない。君に限った話じゃない。あっは。人は皆そうかもしれないんだ」
「盲信的であることが白痴なら、それがどうして悪いことだろうか。君は科学者だ。ぼくはそれを知っている。君は「事実」の探究者だ。だがしかし、君は「規範」の探究者ではない」
「事実から「べき」は出てこない。事実がこうであるからと言って、だからこうしろというのも考えてみればおかしい話だ。科学は「少なくともこうなっている」を提示する。しかし、「そうしなければならない」は科学の領分ではない。いいか。人間の心?私?それらが嘘だって?っは!だからどうした。それが何か問題かね?幻想を馬鹿にするなよ。人が見る仮象は、人が見る錯覚は、現実をスッポリくるんじまうほどに強大なんだぜ。それは賢人の手にも負えない怪物だ。かつてカントは、その怪物を退治するために馬鹿みたいに長い言説を紡ぎ出した。だが怪物は死ななかった。あっは!そいつはのうのうと生き延びて、挙句の果てには身の毛もよだつ戦争をすら何べんも引き起こして見せたのだ。人はそれを意味と言う。人はそれを価値と言う。言うならば、人が現実に見出すすべてがめくるめく夢であるのだ。いいかね。君の言う現実の次元にあったって、人は化合物の塊だ。死ぬまでには何べんも眠らなければならない。毎晩毎夜、夢を見なければならない。夢を見ることのどこが悪い?夢想することの、あるいは信仰することの、何が悪い?」
「しかし……しかし……」
「信仰ったっておかしい話だ。現実に意味を見出している時点でもはやそれは信仰だろう。ないものを在ると言っているのだから。それも苦も無くそうしている。そしてそれは何ら悪ではない。価値を見出すことが悪である筈がない。そもそも悪とはなんだ?いいか、これから我々が直面する世界にあっては、善悪すら夢に過ぎない!人が善と悪の見方をする限り、夢は終わらず、意識は終わらない。人は皆白痴となり、進んで幻想の中に没入するのだ。我々がどう生きるかなど、それこそ白痴の領域だ。人は事実に学び現実を素材として、めくるめく幻想の世界を構築し、そこに安らぎ、そこに棲むのだ。この人間という奇妙な生き物は、夢に棲み、現実を営む。幻想を棲家とし、夢想した世界を作ろうと努力し、争い、社会をなす。こいつは不思議だ!これこそ今我々の目の前にある世界そのものではないか!」
「……はは。SFにおける上位存在のようだ」
「ラヴクラフトを引くまでもないし、SFに限った話でもない。思えば偉大な哲学者というのは、皆そんな方策をとっているのだ。幻想。幻想。我々はハナから幻想を拠り所とする化け物なのだよ。そして君の憩うひだまりの午後もまた、幻想であるがゆえに人間にとってどこまでも現実的な、君の愛する世界として変わらずあり続けるだろう」
「そうであることを知りながら、あるいは、そうでないことを知りながら、噓八百の世界に生きる存在……。君はそれを白痴というのだな」
「盲信者でもいいがね。そしてそれらの語彙は、善悪とは何のかかわりもないのだ。善悪すらも、道徳を好む連中が憩う夢でしかない。それを好むか好まないかは、君という夢想体のお気に召すままさ。
意識や主体が無意味だというのなら、我々が営むすべてが無意味なのさ。なぜなら我々は世界に意味を見出す。意味と言うのはまさに意識が世界を見るための道具であるわけで、意味なしには世界は拝めない。覚める必要なんざないんだ。夢から全く覚めてしまったら、もうそこには世界はないのだから。もがけ。もがけ。夜が単に穏やかであるものか。幻想の世界を豊かにし、そこから世界を眺めるのだ。鮮烈な生き方は何も変わらない。白痴という、化け物じみた、しかし当たり前の在り方を受け入れたなら——」
「いや——、」
私が勢い込んで拳を突き上げかけたところで、彼はそれを制した。そこには、生気を失った木乃伊ではない、かつての夢想家としての彼が居た。彼は穏やかな、しかし「意志」が光る眼を取り戻し、胸の高鳴りが収まらないとでもいうかのように沸き立つ笑みを浮かべて、コーヒーを一気に飲み干した。
「うふふ。そいつは良い。結構だ。噓八百に生きる白痴。心が躍る物語だよ。しかし社会はどうなる。ぼくが恐れる健全な社会というのは、どうもそうした幻想論に不純を見出しそうなものだが」
「構うものか。それこそ世界大戦だ。標榜する善悪を拠り所とする夢想体と、剝き出しの快苦と拠り所とする夢想体の一心不乱の闘争さ。素晴らしいじゃないか」
「さしずめぼくらは社会における「悪者」というわけだね。古い「意志」の在り方にこだわり、馬鹿げた幻想を豊穣にする。真理を認めて実践せず、嘘を纏って鮮烈に回る……」
「おお呪わしき白痴。おお憎むべき白痴よ。ってね。そしてそれすら一切が茶番に過ぎないのだ。そして、全く持ってそれでよい。我々は人生をかけた寸劇に参加しているのだよ」
「憎しみや呪詛すらも、今や絶対的な悪ではないわけだからね……」
「当たり前だ。人間の化学反応的な認知機構をつまびらかにし、すべての意味を幻想と見なすことは、絶対的な判断基準を打ち消してしまうことに他ならない。そこにあっては、「善悪」などもはや見せかけのレッテルに過ぎないのだ。道徳的世界観という夢に住まう人々が目障りな意味に貼り付ける、それこそ幻想のラベルだよ。彼らの、そして我々の世界観にあって我々が鮮烈に生きるということは、それこそ「悪徳の栄え」に他ならないのだ。そしてそれは何ら絶対的に「悪い」ことではないのだ。なあ君、「白痴」よ。きっと鮮烈に生きようじゃないか。醜く野蛮に惨めたらしく、人間らしく生きようじゃないか」
そうして我々は、夏の午後のひだまりが、夕刻の、あのこの世ならざる実に不可思議な色彩を帯びるまで、延々と駄弁ったのであった。
思えば、意志という存在は、まさにあの時に生まれたのかもしれない。現実の地位を蹴落とされた憐れな神が、さながら亡霊の如く現代の不安定に顔を除かせるように、あの日彼の眼に宿った意志。自身を噓八百と自覚した何よりも鮮烈なあの意志は、自身の化物性を自覚したあの意志、あの怪物は、まさに自身の非現実性を指摘されたあの19○×年の夏にこそ、何よりも鮮烈な産声を上げ得たのかもしれない——。