長らく見る機会に恵まれなかったが、先日ようやく「12人の怒れる男」という映画を観た。
SNSに感想を漁りにでる前に、所感を適当に書き留めておこうと思う。
とても怖い映画だと思った。
以前どこかで、「これは推定無罪の原則を象徴する作品だ」とかなんとかいう解釈を見た気がする。
それは観ていればそうだろうと思わざるを得ないが、他にもたくさんの解釈が可能だろうなと思った。
偏見、思い込み、責任、権利、命の重さ。
場面の一つ一つにいわゆる「思うところ」があり得て、観た後にとても疲れた感じがあった。
けれども全体としてはきっと気持ちの良い映画なのだろうから、不思議なものだ。
最終的な(そして個人的な)感想は、「これはとても恐ろしい映画だ」というものだった。
ただしこの恐ろしさは、やましいことのある者が抱く恐ろしさなのだろうと思う。
あるいは、いじめや、それに類する場の空気に怯えたことのある者が感じる恐ろしさだろうか。
少なくとも小洒落たレトリックやドンデン返し、メタ構造などの比ではない、鑑賞者を道連れにするような恐ろしさがあった。
仲間がいなくなっていく恐ろしさ。
独りになることの恐ろしさを、これほど生々しく、かつ露悪的に描いた映画を私は観たことがない。
どうだろう。
人は、あの夏風邪の男が喚くシーン、次々と人が席を離れていくシーンで「ざまあみろ」と思うのだろうか。
それとも「怖い」と思うのだろうか。
人は、最終盤の、最後の独りになった男に全員の目線が注がれるシーンで「ほらどうだ」と思うのだろうか。
それとも「怖い」と思うのだろうか。
私はどのシーンでも「怖い」と思った。
夏風邪の男と最後の独りは、どちらも終始好ましい人物として描かれない。
偏見に満ち、傲慢で、強情で、乱暴で、今時の言葉でいう「有害な」人物たちだ。
けれども私は、最後の独りが喚く言葉の中のただ一言に、強い共感を覚えた。
「これは脅迫だ」
最後のあの眼が脅迫でなくてなんであろうか。
もちろん、あの最後の11人(状況的には10人?)の「恐ろしい」眼差しは、思い返してみれば、当初は全く別の独りに向けられていたものだ。
その意味で映画の鑑賞者(私)は、全く同じ恐ろしい状況を、ある時は平然とスルーし、またある時は非常な恐怖を以て受け止めたことになる。
まるで告発を受けたような気分である。
だからこそ、私が感じた「恐ろしさ」は、決して純粋被害者のそれではないのだ。
けれども、だからと言って、感じた「恐ろしさ」が、被害が、消えるわけではない。
筋書き通りに観れば、なるほど、証言は疑わしく、指摘に納得して次々と意見を翻す者が増えていくのは頷ける。
むしろそれだけであれば、終始爽快な推理もの(サスペンス?)として観ていられただろう。
しかし12人の眼がそれを不可能にしている。
はじめに独り無罪を主張した男の眼は、次第に人々に伝染していき、最後はただ独りに一挙に向けられる「暴力」になる。
まるでカタルシスのないゾンビ映画を観ているような気分にさせられる。
ひとり、またひとりと、あの場から「個人」が消えていく。
個人の数は初めは独りで、中盤にかけて増えたかと思えば、最後にはまた独りになっている。
その意味では、中盤、6対6になるあたりまでが一番楽しかった。個人がまだ個人として生存していた。
個人の数が一番多い場面だ。
それが、最も声の高い小柄な男が毅然とし始めたあたりで揺らいでいく。
「のど飴は品切れだ」のあたりの胸の悪くなるような雰囲気と言ったらない。
議論をしろ。いじめをするな。
そう思った。
そしてそう思うとき、くどいようだが鑑賞者(私)は、はじめの独りに対して行われていた「いじめ」をのほほんとスルーしていたことに気付かされるのである。
少なくともこの映画は、(タイトルに反して)決して12人を平等に扱った作品ではない。
論証の(素人目から見た)爽快さに反して、構成だけをみれば、最後の独りにとんでもない皺寄せが起こっている。
無罪を決断した彼らを貫くものは、「正しさ」なんて生温い、非常に冷徹な(ともすれば非人間的な)「合理性」なのかもしれない。
しかしそれが徒党を組んで訴えられた瞬間に、見るも悍ましい「暴力」になってしまった。
少なくとも私には、最後のあの11人の眼が、割り切れず、気持ちの悪い、人間的な恐ろしさを表現しているように思われた。
なんとも怖い映画である。