原田のゴミタメ。

私が語ることは、すべて接頭に「私にとって」が与えられねばならない。我儘で、自分勝手で、醜く幼い私の誇大妄想。私的な論理の飛躍は決して万人に敷衍されてはならないが、万人が私の妄想を否定したとき、もはや私には生きる必要がないと思われる。せつに、そう思うのである。

2020-01-01から1ヶ月間の記事一覧

運動は常に否定を伴う。 故に醜く、不快である。

フカフカの椅子に腰掛け、目前の狂気を鑑賞する。 これほどの快楽があろうか。

日記。(1.28.20)

きょうは9じはんにおきました。 はやおきです。 とうけいのてすとにぎりぎりまにあって、とりあえずぜんぶうめました。 じしんがあったところがあとからまちがっているとわかったのはつらかた。 とうけいのしゅくだいをひとつだしわすれていたのでせんせいに…

夢。

夢や希望といった白々しい仮面を剥がせ。 それは欲望と何が違うのか。 全てが醜い欲望、エゴイズムに還元される。 夢や希望という見せかけの安看板にしがみつく馬鹿者は、腐った道徳の奴隷である。 もっとも、腐敗なき道徳など存在しないが。

狂気。

無償の奉仕、ボランティア精神などという、社会に汚染された狂気の発想。 自己利益を無視した、生命への最大級の冒涜。

最も不幸。

誰もが自分こそ一番に不幸だと思っている。 ならば私も遠慮なく主張させていただく。 私こそが一番に不幸である。 みんなやっているのだからいいじゃないか。

誰かにとってのユートピアは、誰かにとってのディストピアである。 ユートピアの普遍性よりは、ディストピアの普遍性の方があり得るように思える。

万人が等しく不幸であるという、あの最も幸福な世界。

道徳に従い、かつその憎むべき害悪を被った者のみが、道徳を糾弾する資格を持つ。

勝利への欲望は、概して醜い。

この世からあらゆる仮面を剥いだ時、一体何が残るのか。 醜いエゴイズムの暴虐と、抑えがたい欲望、衝動、絶叫、怠惰。 健全の名の下に抑圧された全ての、心からの発露。 すなわち生の礼賛ではないか。

成したことに対する感想は、ただ成した本人のみに発言権が与えられる。 醜い汚物、すなわち世間体や、他人への配慮等は、これに対し一切の影響を許してはならない。

考えることは苦痛である。 人は深く考えるより、直感的に納得のゆく言説に飛びつくだろう。 溌剌な、健全な、前向きな言葉が持て囃されるのはこのためである。 反吐が出る。

日本人が(別に日本に限ることでもあるまいが)美徳としていたものの、海外の傾向との比較による否定を見るにつけ、私は海外の人間には美徳が、精神的安寧の源泉(そこでは一切の疑いから解放される場所)がないのかしらと思う。(良し悪しの話ではない) い…

何故「悪」が責められ「善」が推奨されるのか。 「悪」が主に生物の基本的欲求に基づくものであり、「善」が往々にしてその否定なのだからではないか。 「善」に耐えている人は、そうでない自由人を僻み、中傷するのではないか。 「善」の徹底は、生の否定で…

少なくとも私に於いて、毎朝、服飾を整え、鏡に向かい、何度も見返して安心しようとする虚しい行為はあくまで「少しでもマシにしよう」という絶望に満ちた苦行でしか無い。

ある別の、一見より重篤な不幸があるからと言って、今自分の抱える不幸が和らぐことも、軽くなることもない。 不幸はあくまで自分自身に根付くものであり、他人との比較から生まれはせよ、他人の不幸が打ち消せるものでもない。 現に海の向こうで何万の無垢…

醜さの上に安住するのが良い。 条件は決して下を見ないことと、盲目的であることだ。

最奥に蹲るのは、あくまで老的骸骨でなければならない。 断じて醜く愚かな肉塊ではない。