原田のゴミタメ。

私が語ることは、すべて接頭に「私にとって」が与えられねばならない。我儘で、自分勝手で、醜く幼い私の誇大妄想。私的な論理の飛躍は決して万人に敷衍されてはならないが、万人が私の妄想を否定したとき、もはや私には生きる必要がないと思われる。せつに、そう思うのである。

脆い部屋


 
 「ん?」

 男はその無音の箱に手をかけようとしたところで、始終を見守っていた機械化従者から静止を受けた。


 「その箱に手をかけるのはどうかご遠慮願います。それは、全く倫理的に禁止されております」


 「俺がこの箱を撫でるだけのことに、一体何の問題があるというのだ?」

 

 「撫でるだけのことで、一切が破綻してしまうのでございます。どうか」


 「ふん。くだらない。俺はここで誓ってもいいんだぜ? そっと撫でる以上のことは決してしないと」


 「無駄でございます。あなたが倫理的な個人である限りで、どうか、どうかその手をお下げになってはいただけませんか」


 「ではこうしよう。俺は全く非倫理的な蛮人だ。俺はこの場で、一切の倫理的要請を振り払ってこの箱を撫で触り、殴って蹴って、可能であるなら解体しよう。俺に一線を越させるか、それともただ撫でることだけを許すか。一つに二つだ」


 機械化従者はたじろいだ。「カッ、カッ」と何かが空回りするような音が聞こえたかと思えば、パチっと肩を落とし、祈るようにして言葉を再生した。


 「わかりました。あなたがなぜその箱を撫でてはいけないのか。その理由を簡潔にお話し致しましょう。これは、全く秘せられ、誰も知る所のない事柄でございます。それを開示する代わりに、どうか、どうかその場から一歩下がってくださいませんか」


 「ふん。いいだろう。ほら、この通りだ」


 男は両手を挙げて一歩下がった。


 「ありがとうございます。では、お話し致しましょう。その箱に触れてはいけない倫理的な理由を」


 
 ことは連鎖的に生起します。その箱に触れてはいけないのは、その箱を触れることによってあなたに生じる「箱の中身への衝動」を起こさせないためなのです。温度、振動、その他全ての諸条件が、あなたの神経組織をして箱の中身への関心を生起させることは決してない、と断言できないからこそ、箱への接触は全く倫理的に禁止されているのです。そうまでして、箱の中身は一体悍ましい悪魔的な代物なのかとお思いでしょう。しかし全く違います。いいですか、あなたが箱に触れない限りで、この箱が関係する一切には全く、微塵の倫理的問題も存在しないのです。ただ、あなたが箱に触れたその瞬間、万が一にもあなたに箱の中身への衝動が発生したその瞬間に、取り返しのつかない倫理的問題へのアクセルが踏まれるのであります。この箱は、この箱の中身は、全く倫理的問題の「生じ得ない」ものなのです。その機能だけ説明いたしましょう。それは、この館のエネルギー供給です。この館に住まう諸々の個人様が充実するために必要な燃料の生産と供給です。この箱が何であるのかという問いの答えはこれだけなのです。そしてここには、何の問題も生じていないのです。全ては円滑に、安定に、平和に、平等に、正しく運営されているのです。あなたがただ、ここから手を引く、それだけのことで、この世界の平穏は担保されるのです。


 
 俺は全く関心してしまった。はは。この従者、全く善意によって運営されていやがる。この説明を聞いたことによっても、俺の興味は十二分に刺激されちまったというのに、俺がそれを堪えて、笑顔で納得して手を引くことを本気で信じていやがる。そんなことがあるかよ。俺はやるぜ。そのためにここに来たんだからな。
 


 機械化従者はひたすらに体を揺すっている。何か取り返しのつかないエラーに見舞われたかのように、ずっと懇願している。


 どうか、どうか、どうか、どうか。
 
 「黙れっ!」
 
 俺は箱に手を伸ばした。
 
 「ああっ! 何をするっ!」
 
 従者が雷に打たれたかのように絶叫する。
 
 何かが弾ける音がした。
 
 箱は生暖かく、トン、トン、トン……と、微かに振動している。
 
 箱は何の抵抗もなく開かれた。まるで抵抗することを恐れているかのように。
 
 その瞬間あらわになったものの悍ましさに、俺は生理的嫌悪を禁じ得なかった。
 
 なんと形容したら良いだろう。いや、これはとにかく「生命」だ。明らかに脊椎動物、哺乳類か何かで、不完全な四肢があり、しかし完全な「頭」はどこにもない。そのかけらのようなものは体のあちこちから発生しようとしているように見えるが、まさにそれぞれに挿入された電極がそれを封じ込めているように見える。毛で覆われた首筋から外部に太いチューブが繋がれており、その中を赤色の体液が脈打つように流れていく。「そいつ」は微動だにしない。しかし「そいつ」は確かに生きており、生きようとしている……。俺は耐えきれずに機械化従者を振り返った。
 
 「これのどこが『倫理的』だってんだ!」
 
 「問題は貴様のその頭の中だ! 死ねっ! 失せろっ! この悪魔ぁ!」
 
 次の瞬間、男の脳髄は機械化従者の銃撃によって吹き飛ばされた。
 
 倒れ込んだ男が取り落とした箱の蓋から、一片の紙片が剥がれ落ちた。
 
 「私は全ての個人に謝罪しなければならない。私の作為は不完全に終わった。
 私は、『生命の活力』のそれを、科学的に抽出し、一個のエネルギー源に加工しようとした。生物の体はまるで神秘だ。ただ生存を確保するだけで、膨大な分子を変換し、エネルギーを循環させる。これを利用しない手はないと考えた。しかしここには大きな問題があった。『倫理的な問題』だ。この生物に「意識」があるならば、それはこの世界に一個の被害者を生み出すことになってしまう。ゆえにまず第一に、私はこの生物の発生を始まりの分子から監視した。倫理的公平性のもとに公開されている世界各国の研究成果を参照して、全く意識などあり得ない数種の分子から、こうして一個の生命を誕生させたのだ。生殖能力のある生命が一個できれば、あとはそれを殖やしていけばいい。私はこの生物種の全ての細胞発生を記録し、およそ意識の発生しうるネットワークが生じないようにした。その萌芽となる組織発生は可能な限り抑制した。ただこの個体の生存と代謝に必要なタンパク質合成経路のみが機能するように効率化を測った。そして系は完成した。まだ動かしてはいない。動かす前にしなければならないことがあるからだ。しかし、しかし、この後に及んで私はどうしてもこれを抑制することができなかった。それがこの『生命』のかたちだ。四肢のような器官形成、脈動と体温は、これをエネルギー源として十全なものにするためには削りようがなかった。可能であれば削りたかった。しかし、試みたが不可能だった。この忌々しい、いや素晴らしい『生命』は、どのような条件であろうと生々しく『生命』の様相を発現し続けた。私の生涯はただその阻害の試みに費やされたと言ってもいい。しかし無駄だった。私はもう限界だ。老いが、手の震えがことを不可能にする。私は死ぬ前に、そしてこの系を動かす前にしなければならないことがある。タイムリミットだ。この『生命』、私が厳重に残す資料を参照すれば何人たりともそこに「意識」の発生を認めないこの『生命』は、しかしその生々しい形質を残したまま運用する他ない。引き継ぎようがないのだ。この研究は。ここに認識を営む他者が居てはならない。そしてこの『生命』の実際は、およそ意識ある個人に知られてはならない。『生命』の情報が他者に知られたとたん、そこに倫理的問題が、一切の問題の源泉が生じてしまうからだ。そして私にはやることがある。ゆえに私は、自身の倫理的良心に従ってこの不完全を全ての個人に謝罪する。
 
 私、門戸冷蔵は、この新型発電機『生命』の開発に関して、いかなる倫理的苦痛も感じなかったことを、ここに本人の責任において宣言する。むしろ私は、全くの倫理的充足を覚えながらこの研究に従事した。そして私は、この装置の使用において、いかなる運用にも倫理的制限を置くものではないことをはっきりと宣言する。私が以下に述べる使用法に則って運用される限りで、つまり、私が別個に開発したロボットの指示に従う限りで、いかなる使用も私は許容し、奨励する。そして私は、この『生命』の開発に関して、この生物の形態が私の心に与えた「生理的嫌悪」について、一切を許容する。私はこの生物の発生をモニタする過程で、「これは冒涜ではないのか」と考えたことがあった。しかし『生命』は主体ではない。そしてこの研究の事実を知るものは私のほかに存在しない。ゆえにここにいる倫理的主体はただ私だけである。つまるところ、この営みの「被害者」である私は、ここに全てを許し、むしろ幸福であったと感謝する。そしてこの営みの「加害者」である私は、この件に関する全ての「被害者」(それは私と、そしてこの事実を知る者のみが該当しうる地位である。そしてこの宣言は誰にも公開されない)に対する贖罪として、ここに謝罪し老衰する。『生命』は、私の意識が完全に消滅した後に起動する。最後に繰り返し宣言する。この件に関する唯一の倫理的主体の源泉である私は、一切を許容し、奨励し、感謝する。私は真に幸福であった。」