原田のゴミタメ。

私が語ることは、すべて接頭に「私にとって」が与えられねばならない。我儘で、自分勝手で、醜く幼い私の誇大妄想。私的な論理の飛躍は決して万人に敷衍されてはならないが、万人が私の妄想を否定したとき、もはや私には生きる必要がないと思われる。せつに、そう思うのである。

自我とぎこちなさ

 

現象学という思考』の第5章「自我」を読んでいて考えたことを記しておく。

https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480016126/

 

本書は、私たちの日常の経験に照らしながら、現象学の概念を紹介していく構成となっている。

その第5章「自我」では、以下のような内容が展開される。

 

我々の日常経験において、(現象学的な)自我や意識というものはそれほどありありと現前しているわけではない。

我々の都度の経験は、「自明性」や「確実性」、つまりその気になれば疑い得るが、しかし日常的な行為においてはほとんど気にとめずに前提してしまっている事柄が、つっかえることなく無意識的に進行しているものだと考えられる。道を歩行するとき、私は手足の一挙手一投足を意識的に指令しているわけではないし、マーケットの会計ではほとんど無意識のうちにポケットから財布を取り出している。

しかしながら、こうした経験の進行はふとした時に破れることになる。それは、例えば机の上に充電してあるはずだと思っていた携帯がなかった時、またじゅうぶん余裕があると思っていた冷蔵庫の牛乳が、全く空っぽだった時などであり、こうした場合、「こうであるはず/そうであるはず」だと前提していた自明性が一時的に破れているのである。

現象学的な自我は、こうした「自明性の破れ」にこそ顔を出す。予想を裏切る経験にあって我々は何か対応を迫られるわけだが、この時、判断の主体としての「自我」が否応なく呼び出されるのである。我々の「自我」は記憶を辿ったり(はて、携帯はどこにおいたっけ?)、予定外の計画を立てたり(今からマーケットに走れば牛乳を手に入れられるかしら)して、少なくとも無意識とは言えない、意識的な行為・思考を働かせることになる。半ば強制的に判断の主体となることから、「自明性の破れ」は「自由」の契機にも見立てられる。

 

こうした記述を読んでいて、私は違和感を覚えた。

日々の経験の進行は、ほとんど無意識のうちに進行するという。しかし本当にそうだろうか。

本文では、自宅へ帰宅する場合が例に挙げられている。手足の動きはもちろん、道順や景色といった、自分にとって「当たり前」の事柄は、それこそ足が突っかかって経験が撹乱されるのでもない限り、ほとんど意識を喚起しないのだという。

しかし少なくとも私の経験において、研究室を出て自宅に至るまでの道のりは、毎時毎秒が「意識」に塗れている。道の凹凸は次の瞬間の「じゃあこっち側を歩こうか」という判断を喚起し、通り過ぎる楽しげな一団は「私」の羨望や惨めさを喚起する。信号に引っかかった時などは、ただ立ち止まるのではない。空を見上げ、道の向こうの古本屋を一瞥し、通過する車を凝視したりして、もちろん「ぼんやり」とはしているが、少なくとも「私」という意識は溢れていて、むしろ惰性的に垂れ流している感すらある。

 

これは一体どう考えれば良いのだろうか。もちろんこうした「垂れ流された意識」など、議論されているような「現象学的意識」とは程遠い妄想だと処理するのが一番簡単だろう。あるいは上に列記した「私」の意識は、今この文章を書いている「私」が脚色を入れながら「思い出した」もので、その時のナマの意識とは異なるものだとも考えられる。しかしこれらの説明は、本文で議論されている「現象学的自我」と「私」の経験との間の溝をスッキリ埋めるようなものではない。

 

こんなふうにモヤモヤしているうちに思ったのが、「ぎこちなさ」という事実である。かつて強烈に悩んだこともあるように、私の一挙手一投足というのは要するに「ぎこちない」のだ。挙動不審で落ち着きがない。

この「ぎこちなさ」をヒントにすれば、「私」の個人的経験と「現象学的自我」を連結することができるのではないか。つまり、私の個人的経験を、説明されているような「自我」の一事例として整理することができるのではないか。

 

なめらかな経験が破れる時、「突っかかる」という表現に顕著なように、人は「ぎこちなく」なる。

そして「経験の破れやすさ」というのは、きっと個人差のあるものなのだ。つまり私の場合、つつがない経験というのは非常に脆くて、些細なことで「突っかかり」、破れてしまう。そしてそのたびに私は「ぎこちなく」なり、意識を飛び散らせることになる。程よい間隔で召喚されればそれで良い「自我」が、引っ込んだ側から再召喚されることで、人は「ぎこちなく」なる。

 

街を歩いていて、ひどくぎこちない人を見かけることがある。

あるいは人と話していて、会話がなめらかさからは程遠い有様であることもままある。

こうした時、人は「意識」を、「自我」を働かせているのだと見れば、なんだかうまく説明できたような気になる。

要は、「次はどうするべきか」という、「自我」を呼び出し判断するプロセスが忙しく稼働しているわけだ。

私がまさにそうであるように、一挙手一投足がぎこちない人間というのは、「不安」というものがとても近くに感じられるのだ。現実とは改めて考えるまでもなく常に目の前に、未来に現前していて、私を苛み脅迫している。こういう状態にある人間は、常に主体として「判断を下す」必要に迫られる。取り立て屋がいつも近くにいて、毎時問い詰めてくるようなものだ。

もちろんここに合理主義者やモラリストが出張る余地はない。「必要のないことに判断を下そうとする意味はない」「そうした精神状態は好ましくないものだ」というのは、まるきり的外れな雑音である。私は私のような個人の所感や特徴について書いているのであって、ここでそのくだらない良し悪しを議論するつもりはない。

 

まとめるならば。

「自我」というものは、確かになめらかな経験の破綻によって表出する現象である。

それは「判断を迫る」という形式を持って、「私」という意識に問いにかかる。

そして「自我」の現れやすさや「自我」の度合い、つまり「無意識的な経験の破れやすさ」というのは、かなり個人差のあるものである。

それは、一つには「ぎこちなさ」という特徴を伴い、観察することができる。

 

あるいはこれは、否定し得ない「私個人」という感覚、社会にあっては時として軽蔑を伴って「幻想」と呼ばれるその感覚の契機であるのかもしれない。常に「自我」を召喚する人間にとっては、意識的な「私」という状態それ自体が「日常的経験」の特徴になるだろう。常に呼び出され稼働し続ける「私」は、何か統一的な価値体系、少なくとも「一貫した私」という状態を要求するのかもしれない。そのような「私」という存在者を尊重の第一におく個人主義は、こうした日々の「ぎこちなさ」の連続から生起してくるのかもしれない。思い切って飛躍してみるならば、このような「個人」という感覚は、幻想どころか現象学的事実でさえあるのかもしれない。もちろん、たとえ個人が幻想だったとしても、それが直ちに無意味と同値であるとはいささかも思わないが。

 

少なくともなめらかな経験とその破れが、人によって異なる強度をとりうるということ。

そしてこの個人間の差異が、善し悪しとは独立な、少なくとも先だった、個人の日常的現象に属しうる事柄であること。

これは、「現象学的自我」の議論を何か規範的な結論に持っていく際に、じゅうぶん考慮に入れる必要がある点だろう。

個人が我が事として思い起こす「日常的経験」に、絶対的な普遍などないのだから。

 

(終)