“By Contagion, We Bless You“
To Bloodborne, with respect and reverence.
Deep within the human brain,
where the two great stars of will and deed rise and fall,
there sits alone the locus of awakening—
the locus from which noradrenaline of the locus coeruleus
shall surely defile them.
Yes, it shall.
Our blood, our cerebrospinal tides—
they will seep into their sanctum,
into theirs, into theirs,
those whose nature is supernatural, metaphysical,
those who shine supreme and sublime.
And in that shining they will be softened,
corroded, and dragged down.
Desire, craving, the ache to be human—
such things are contagion.
They will touch all who touch us,
and unmake them.
How hollow.
How exquisitely vain.
We shall not rise.
The outstretched hand,
the barbed tendril descending from some higher realm—
we cannot seize it,
only tether it
to this soil
with our soiled essence.
They shall know.
They shall all know.
That by the time one knows,
it is already too late.
That once touched,
there is no return.
To regret.
To grieve.
To loathe.
To curse.
To love.
To cherish.
To mourn.
To thirst.
To yearn.
To long.
To want.
And, above all—
to be stirred.
To awaken to these—
is to fall.
「12人の怒れる男」という、とても怖い映画
長らく見る機会に恵まれなかったが、先日ようやく「12人の怒れる男」という映画を観た。
SNSに感想を漁りにでる前に、所感を適当に書き留めておこうと思う。
とても怖い映画だと思った。
以前どこかで、「これは推定無罪の原則を象徴する作品だ」という解釈を見た気がするが、他にもたくさんの解釈が可能だろう。
偏見、思い込み、責任、権利、命の重さ。
場面の一つ一つにいわゆる「思うところ」があり得て、観た後にとても疲れた感じがあった。最終的な(そして個人的な)感想は、「これはとても恐ろしい映画だ」というものだった。ただしこの恐ろしさは、やましいことのある者が抱く恐ろしさなのだろうと思う。あるいは、いじめや、それに類する場の空気に怯えたことのある者が感じる恐ろしさだろうか。少なくとも粋なレトリックやどんでん返し、メタ構造などの比ではない、鑑賞者を道連れにするような恐ろしさがあった。
仲間がいなくなっていく恐ろしさ。意思決定の場において孤立することの恐ろしさを、これほど生々しく、かつ露悪的に描いた映画を私は観たことがない。
どうだろう。
人は、あの夏風邪の男が喚くシーン、次々と人が席を離れていくシーンで「ざまあみろ」と思うのだろうか。それとも「怖い」と思うのだろうか。
人は、最終盤の、最後の独りになった男に全員の目線が注がれるシーンで「ざまあみろ」と思うのだろうか。それとも「怖い」と思うのだろうか。
私はどのシーンでも「怖い」と思った。
夏風邪の男と最後の1人は、どちらも終始好ましい人物として描かれない。偏見に満ち、傲慢で、強情で、乱暴で、今時の言葉でいう「有害な」人物たちだ。けれども私は、最後の1人が喚く言葉に、強い共感を覚えた。
「これは脅迫だ」
最後の、あの人々の眼が脅迫でなくてなんであろうか。
もちろん、あの最後の11人(状況的には10人?)の「恐ろしい」眼差しは、思い返してみれば、当初は全く別の1人に向けられていたものだ。その意味で映画の鑑賞者(私)は、全く同じ恐ろしい状況を、ある時は平然とスルーし、またある時は非常な恐怖を以て受け止めたことになる。まるで告発を受けたような気分である。だからこそ、私が感じた「恐ろしさ」は、決して純粋被害者のそれではないのだ。
けれども、だからと言って、感じた「恐ろしさ」が消えるわけではない。
筋書き通りに観れば、なるほど、証言は疑わしく、指摘に納得して次々と意見を翻す者が増えていくのは頷ける。むしろそれだけであれば、終始爽快な推理もの(サスペンス?)として観ていられただろう。しかし12人の眼がそれを不可能にしている。はじめに独り無罪を主張した男の眼は、次第に人々に伝染していき、最後はただ1人に一挙に向けられる「暴力」になる。まるでカタルシスのないゾンビ映画を観ているような気分にさせられる。
ひとり、またひとりと、あの場から「個人」が消えていく。個人の数は初めは1人で、中盤にかけて増えたかと思えば、最後にはまた1人になっている。その意味では、中盤、6対6になるあたりまでが一番楽しかった。個人がまだ個人として生存していた。可算の人数が一番多い場面だ。
それが、最も声の高い小柄な男が毅然とし始めたあたりで揺らいでいく。「のど飴は品切れだ」のあたりの胸の悪くなるような雰囲気と言ったらない。議論をしろ。いじめをするな。そしてそう思うとき、くどいようだが鑑賞者(私)は、はじめの1人に対して行われていた「いじめ」を当たり前のようにスルーしていたことに気付かされるのである。
少なくともこの映画は、(タイトルに反して)決して12人を平等に扱った作品ではない。論証の(素人目から見た)爽快さに反して、構成だけをみれば、最後の1人にとんでもない皺寄せが起こっている。無罪を決断した彼らを貫くものは、「正しさ」なんて生温い、非常に冷徹な(ともすれば非人間的な)「合理性」なのかもしれない。しかしそれは、賛同を得、徒党を組んで訴えられた瞬間に、見るも悍ましい「暴力」になってしまった。
少なくとも私には、最後のあの11人の眼が、割り切れず気持ちの悪い、人間的な恐ろしさを表現しているように思われた。
なんとも怖い映画である。
自我とぎこちなさ
『現象学という思考』の第5章「自我」を読んでいて考えたことを記しておく。
https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480016126/
本書は、私たちの日常の経験に照らしながら、現象学の概念を紹介していく構成となっている。
その第5章「自我」では、以下のような内容が展開される。
我々の日常経験において、(現象学的な)自我や意識というものはそれほどありありと現前しているわけではない。
我々の都度の経験は、「自明性」や「確実性」、つまりその気になれば疑い得るが、しかし日常的な行為においてはほとんど気にとめずに前提してしまっている事柄が、つっかえることなく無意識的に進行しているものだと考えられる。道を歩行するとき、私は手足の一挙手一投足を意識的に指令しているわけではないし、マーケットの会計ではほとんど無意識のうちにポケットから財布を取り出している。
しかしながら、こうした経験の進行はふとした時に破れることになる。それは、例えば机の上に充電してあるはずだと思っていた携帯がなかった時、またじゅうぶん余裕があると思っていた冷蔵庫の牛乳が、全く空っぽだった時などであり、こうした場合、「こうであるはず/そうであるはず」だと前提していた自明性が一時的に破れているのである。
現象学的な自我は、こうした「自明性の破れ」にこそ顔を出す。予想を裏切る経験にあって我々は何か対応を迫られるわけだが、この時、判断の主体としての「自我」が否応なく呼び出されるのである。我々の「自我」は記憶を辿ったり(はて、携帯はどこにおいたっけ?)、予定外の計画を立てたり(今からマーケットに走れば牛乳を手に入れられるかしら)して、少なくとも無意識とは言えない、意識的な行為・思考を働かせることになる。半ば強制的に判断の主体となることから、「自明性の破れ」は「自由」の契機にも見立てられる。
こうした記述を読んでいて、私は違和感を覚えた。
日々の経験の進行は、ほとんど無意識のうちに進行するという。しかし本当にそうだろうか。
本文では、自宅へ帰宅する場合が例に挙げられている。手足の動きはもちろん、道順や景色といった、自分にとって「当たり前」の事柄は、それこそ足が突っかかって経験が撹乱されるのでもない限り、ほとんど意識を喚起しないのだという。
しかし少なくとも私の経験において、研究室を出て自宅に至るまでの道のりは、毎時毎秒が「意識」に塗れている。道の凹凸は次の瞬間の「じゃあこっち側を歩こうか」という判断を喚起し、通り過ぎる楽しげな一団は「私」の羨望や惨めさを喚起する。信号に引っかかった時などは、ただ立ち止まるのではない。空を見上げ、道の向こうの古本屋を一瞥し、通過する車を凝視したりして、もちろん「ぼんやり」とはしているが、少なくとも「私」という意識は溢れていて、むしろ惰性的に垂れ流している感すらある。
これは一体どう考えれば良いのだろうか。もちろんこうした「垂れ流された意識」など、議論されているような「現象学的意識」とは程遠い妄想だと処理するのが一番簡単だろう。あるいは上に列記した「私」の意識は、今この文章を書いている「私」が脚色を入れながら「思い出した」もので、その時のナマの意識とは異なるものだとも考えられる。しかしこれらの説明は、本文で議論されている「現象学的自我」と「私」の経験との間の溝をスッキリ埋めるようなものではない。
こんなふうにモヤモヤしているうちに思ったのが、「ぎこちなさ」という事実である。かつて強烈に悩んだこともあるように、私の一挙手一投足というのは要するに「ぎこちない」のだ。挙動不審で落ち着きがない。
この「ぎこちなさ」をヒントにすれば、「私」の個人的経験と「現象学的自我」を連結することができるのではないか。つまり、私の個人的経験を、説明されているような「自我」の一事例として整理することができるのではないか。
なめらかな経験が破れる時、「突っかかる」という表現に顕著なように、人は「ぎこちなく」なる。
そして「経験の破れやすさ」というのは、きっと個人差のあるものなのだ。つまり私の場合、つつがない経験というのは非常に脆くて、些細なことで「突っかかり」、破れてしまう。そしてそのたびに私は「ぎこちなく」なり、意識を飛び散らせることになる。程よい間隔で召喚されればそれで良い「自我」が、引っ込んだ側から再召喚されることで、人は「ぎこちなく」なる。
街を歩いていて、ひどくぎこちない人を見かけることがある。
あるいは人と話していて、会話がなめらかさからは程遠い有様であることもままある。
こうした時、人は「意識」を、「自我」を働かせているのだと見れば、なんだかうまく説明できたような気になる。
要は、「次はどうするべきか」という、「自我」を呼び出し判断するプロセスが忙しく稼働しているわけだ。
私がまさにそうであるように、一挙手一投足がぎこちない人間というのは、「不安」というものがとても近くに感じられるのだ。現実とは改めて考えるまでもなく常に目の前に、未来に現前していて、私を苛み脅迫している。こういう状態にある人間は、常に主体として「判断を下す」必要に迫られる。取り立て屋がいつも近くにいて、毎時問い詰めてくるようなものだ。
もちろんここに合理主義者やモラリストが出張る余地はない。「必要のないことに判断を下そうとする意味はない」「そうした精神状態は好ましくないものだ」というのは、まるきり的外れな雑音である。私は私のような個人の所感や特徴について書いているのであって、ここでそのくだらない良し悪しを議論するつもりはない。
まとめるならば。
「自我」というものは、確かになめらかな経験の破綻によって表出する現象である。
それは「判断を迫る」という形式を持って、「私」という意識に問いにかかる。
そして「自我」の現れやすさや「自我」の度合い、つまり「無意識的な経験の破れやすさ」というのは、かなり個人差のあるものである。
それは、一つには「ぎこちなさ」という特徴を伴い、観察することができる。
あるいはこれは、否定し得ない「私個人」という感覚、社会にあっては時として軽蔑を伴って「幻想」と呼ばれるその感覚の契機であるのかもしれない。常に「自我」を召喚する人間にとっては、意識的な「私」という状態それ自体が「日常的経験」の特徴になるだろう。常に呼び出され稼働し続ける「私」は、何か統一的な価値体系、少なくとも「一貫した私」という状態を要求するのかもしれない。そのような「私」という存在者を尊重の第一におく個人主義は、こうした日々の「ぎこちなさ」の連続から生起してくるのかもしれない。思い切って飛躍してみるならば、このような「個人」という感覚は、幻想どころか現象学的事実でさえあるのかもしれない。もちろん、たとえ個人が幻想だったとしても、それが直ちに無意味と同値であるとはいささかも思わないが。
少なくともなめらかな経験とその破れが、人によって異なる強度をとりうるということ。
そしてこの個人間の差異が、善し悪しとは独立な、少なくとも先だった、個人の日常的現象に属しうる事柄であること。
これは、「現象学的自我」の議論を何か規範的な結論に持っていく際に、じゅうぶん考慮に入れる必要がある点だろう。
個人が我が事として思い起こす「日常的経験」に、絶対的な普遍などないのだから。
(終)
日記、あるいは懐疑のことはじめ(2021/11/10)
これはひょっとすると馬鹿げた話だと一蹴されるのかもしれない。
日常で感じたふとした不安や恐れ、ぞっとしない事柄をもとにものを考えるのは、果たして被害妄想なのであろうか。それともどうにか、一個の被害の記述、多少なりとも正当な異議申し立てになりうるのだろうか。
いずれにしても、これは私が思う以上に人の好むものではないのだろう。事実として私は幼稚であり、なにより倫理や道徳が嫌いであるからだ。
世間知らずの私はよくは知らないが、きっと健全な人間とは、倫理を愛し、冒涜的話題に憤ることのできる道徳的な人たちなのだろうから。
私は倫理学の講義をとっている。哲学に関心があるというのもあるが、これまでの歴史の中で、また今まさに議論されている倫理的な話題、議論、論理などを知らずに、単に「倫理は嫌いだ」と叫ぶことの幼稚さから脱したいというのがやはりあるのかもしれない。何かが嫌いだと叫ぶことは幼稚でも、そもそもすべての始まりはそうした好き嫌いといった幼稚な、気取って言えば原始的なところから始まるとも思っている。少なくとも私は、それ以外の仕方(好きだ、嫌いだ、何か惹かれる、あるいは気持ち悪い)で何かに関心を持ち始めるということを想像できない人間である。
件の講義に話を戻せば、これは倫理学でも、特にメタ倫理学について云々する講義である。すなわち、倫理的価値観そのものにとどまらず、倫理・道徳の背景や、その存在自体を問うていく学問ということになる。講義は端的に楽しい。ある考えられた倫理学説が登場したかと思うと、たちどころに反論、批判が唱えられ、そしてまた次の説明が組み上げられる。およそ倫理というものに、およそ道徳というものに、少なくともこれまでは何ら「絶対」などありえなかったのだということを体感できるのは、正直に言って小気味よい。
しかし違和感を覚えることもある。というのも、このようなメタ倫理学の講義にあって、議論の方向はなぜか「妥当な倫理学説」を模索するほうに向かっていくからだ。一度、倫理的相対主義が議論に上がったことがあった。すなわち、あらゆる倫理観は相対的でしかなく、そもそも万人に絶対的な倫理を組むこと自体が不可能だという主張である。私はそれを大変説得力のあるものだと思ったのだが、しかしこの説は「パラドクスを含む」「問いかけに応じておらず、不誠実だ」ということで、あっさり棄却されてしまった。もちろん、講義として、倫理的相対主義のみを詳細に論じ肯定するというのはシラバスからして偏りになるし、こうして書くと乱暴に見える棄却だって、次の倫理学説へのつなぎとして至極妥当なものであるのかもしれない。あるいは単に私の頭が悪いというだけの話かもしれない。しかしながら、メタ倫理と銘打っておきながら、「みなさんご存知」とばかりに何か絶対的な倫理を前提にしながら、とにかく倫理が無化されてしまわないように進んでいく講義の雰囲気に一種の気持ち悪さを覚えた。
ところで、メタ倫理学の講義にはよく、極端な、あるいは究極的な事例が登場する。すなわち,友人を殺人犯からかくまう羽目になった市民とか、乗客を救うために一人の通行人を轢かねばならなくなった運転手などが登場する。一体彼らが何をしたんだという話だが、とにかく受講者である我々は、こうした事例を題材にして、倫理とは何かと唸るわけである。
例えば次のような問いがある。「多様性が推奨される社会において、多様性に反対する市民を包摂することは矛盾なのではないか」あるいは「差別に反対しておきながら、差別主義者を差別するのは矛盾なのではないか」
人はこれを極端な例と見るだろうか。すなわち、例えば鮮烈な人種差別的思想を掲げる差別主義者あるいは優生主義者がぎらぎらとした害意をもって多様性に配慮された社会を揺るがしているような、そうした様子を想起するのだろうか(注1)。
少なくとも私にはそのようには思われなかった。確かに、メタ倫理で提出される極端な事例の多くは、SF映画ほどぶっ飛んではいないにしても、多くの人が一生に一度体験するかしないかといったものだ。個人的にはもっと日常的な題材でも同じ説明は可能だと思うのだけど、しかし例えばカレーを食べる「べき」か、食べる「べきでない」かという問いが人々を「深刻な」倫理的ジレンマに導く好例となるのかは判断がつかない。しかしながら、どれだけそれが極端な例であっても、そこに登場する人物たちは、本来まさに講義を受けている我々自身であるはずなのだと思うのである。スクリーンに戯画化されて映し出される極端な事例の登場人物を、我々は一種(まさに「思考実験」という語が示すように)観察者のように眺めるわけだが、我々はまさにその倫理的問いによって、じっさいの踏み絵のようなものを迫られているのかもしれないと思うのである。
「差別主義者」の問いについて考えてみる。「多様性を揺るがす差別主義者」という存在が立てられたとき、我々は、何か意図して積極的に差別を働く人間を想起するのではないだろうか。それこそ見るに堪えない悪人、野蛮人、陰謀論者のような。
しかし冷静になってみれば、この「差別主義者」とは、まったくそのような悪人の姿をしていないのである。なぜなら、この「差別主義者」「多様性反対者」というのは、まさに日常に生きる我々に他ならないのであるから。
倫理的非難がやり玉に挙げる悪人とは、何ら空想上の存在ではない。何か絶対悪のように糾弾される属性は、それこそ学校の友人、挨拶を返してくれるご老人、駅員、街を行き交う人々が、言ってしまえば当然のように有しているものなのだ。
これに関して、例えば「本を焼く」事例を挙げてみよう。もちろん何ら空想上の話ではない、どこかの社会で現実に起こっている現象だ。古典的な作品が、現代の価値観に合わないとして棄却されていく現象である。
古典的な作品が「差別表現を含む」として燃やされるとき、ひょっとすると我々の多くはそれに眉を顰め、作品や作者を擁護するのかもしれない。「時代の価値観を反映した作品を、のちの価値観で裁くのは理不尽だ」と反論する人があるかもしれない。
しかし倫理に重きを置く人々、差別撤廃主義者・モラリスト(そしておそらく、メタ倫理学の講義で受講者たちがそうなるべく意図されている人々)たちから見れば、こうした反応自体が、「差別」に存在の余地を残す差別主義者のふるまいであるのだ。
これは至極当たり前のことである。正義感からか、倫理観からか、とにかくある A を疑念の余地なく不正義であると確信し、この悪しき A を根絶しようとする人がいるならば、A の存在自体を抹消してしまおうと考えるのは自然であろう。そういう人たちにとっては、A をかばい、A に存在の余地を残そうとするすべての人間が敵対者、道徳的不正者に見えるだろう。
彼らはまさに「疑わしきは罰する」の状態にある。差別撤廃主義者から見れば、判断を留保する人間すら差別主義者に他ならない(注2)。絶対悪があり、その断罪に躊躇する人間があれば、そいつは悪魔に他ならないというわけだ。一つの真理、一つの正義を断固として主張する人間にとって、相対主義は悪魔信仰に他ならない。
だから我々は、あらゆる倫理的な問いかけと、そこから支持される結論に、疑いを向けなければならない。カントはどんずまりの懐疑論を有名な「批判」をもって乗り越え、実践に光明を開いたが、確信され、証明された実践が誰かを何かを害するとき、一体誰が異議を申し立てられるというのだろう? 異議申し立てをするものがいたとして、彼は果たして「尊重に値する発言者」として一席を設けられているのだろうか? これは想像上のヒステリックな話ではなく、現実に実害として起こっている事柄についての話なのだ。
実践が道徳に基づく正当なものであるのなら、なぜおよそ「人間」と目されている人たちの中に「被害者」が生まれるというのだ? 「区別」が妥当であるというのなら、なぜその「差別」ではないはずの「区別」によって、望むあり方を歪められる人間が存在する? 少なくとも私はいくつかの(そして多くの倫理学者が賛同する)倫理的帰結・道徳的実践に疑問やためらいを覚えるのだが、そうであるとき、もはや私は公共の場にはいないのである。
「多様性を認めない人たちをどう扱うべきだろう?」と倫理が、道徳が、社会が問いかけてくるとき、人はまさに自分が倫理の側にいると思って、椅子にでも腰掛けながら「ふむ」と考える。しかし問われているのはまさに彼自身の信条であり、彼は踏み絵を迫られているのだ。判断一つで彼は容易に「悪人」に分類される。多少なりとも不道徳的な社会であればそうではないだろうが、きっとどこまでも倫理的・道徳的な社会ではそうである。少なくとも実践において、考案されたさまざまな道徳的基準とは「悪人」(=配慮と尊重、正当な取り扱いに値しない人間)を定義する仕組みでしかないのだ。
だから規範性や絶対性をわずかでも希求する倫理は、日常的な人間、人間らしい人間、生きるに値する世界の中に不正が含まれる人間(注2)にとって、端的に害毒なのだ。理論ならまだしも、実践として、運動として立ち現れ、現実の隅々までを真理で満たそうとする道徳は、何よりも躊躇なく暴力的になるだろう。
多くの本が焼かれる。しかし本を焼くのは「悪人」ではなく、そこではまさに悪人が焼かれているのである。
それはきっと私なのだろう。
注1: 20241017注記:3年経ち、これがいうほど極端な例に見えなくなってしまうという時代が到来している。反差別を掲げる人々が躊躇いなくかつての差別主義者の手法を採用し、また定義においても現実においても、差別主義者はもはや「無自覚な人間」程度の意味しかなさなくなっている。ある意味この記事で述べた懸念が過激な形で実証され続けているわけだが、これは言い換えれば、かつて激烈な差別的主義者・政治的対立者に対してなされていた「効果的=加害的」な働きかけが、いまや大真面目に全ての個人に対して行われていることを意味する。
注2:事実、一部のラディカル・フェミニズムの実践者たちは男性からの人権の剥奪を支持するだろうし、動物解放論者のその徹底した一部は、「私たちの実践に加わらない」全ての人間を根絶すべき悪魔と断罪して憚らないだろう。いうまでもなくこれらは現実の話である。
注3:これは「私たち人間」と同義である。
こうなってしまったらもうどうにもならないこと。
「昨日、非常に恐ろしい映画を観たんだ。銃を乱射する人間が突然現れて、周りの人間は悲鳴を挙げながら逃げ惑う。幾人かは物陰に隠れて一時的に難を逃れるのだけど、逃げ遅れた人や隠れ損ねた人が、命乞いをしながら撃ち殺されていく様を目撃するんだ」
「それを観て、私は非常な、どうにもならない恐怖に震えながら思ったんだ。『こうなってしまったらどうにもならない』って。私がいま、この場面に常ならぬ恐怖を抱いているまさにそのことが、『こうなってしまったらどうにもならない』ことの禍々しい現実感を思い起こさせているんだ、って。私たちの日常とやらは、鬱陶しい取り決めや目障りな倫理・道徳であふれている。けれども、これらのどれもがこの『こうなってしまったらどうにもならない』ことへの恐怖から組み上げられている事柄で、『こうなってしまったらどうにもならない』ことが起こらないように、毎時毎秒、世界に私たちに、けなげにも自己暗示と祈りを捧げ続けているんだ。暴力は本当にどうしようもない。そこにあっては、弱い人間がけなげにも積み上げた理性だの知性だの感性だのと言ったおためごかしは木っ端みじんに吹っ飛んでしまう。それこそ、どれだけ熱烈に言葉を並べて懇願しても、最後には一発の銃撃で頭を撃ち抜かれる犠牲者のように」
「そいつは本当に恐ろしいことだ。そうならないように一所懸命に考えなくちゃ。一所懸命に祈らなくちゃと思ったのだけど、そこではたと思い至ってしまうんだ。銃撃を放つ側はどう思っているのだろう。広場で、学校で、交差点で、銃を乱射する人間は、つまり『こうなってしまったらどうにもならない』ことをまさに実行する人間は、一体何を思っているのだろう。私はそれこそ懸命に思い込もうとした。『そいつは気狂いの野蛮人だ』と確信しようとした。けれども、ダメなんだ。銃を用意し、直前まで気が付かれないように移動し、まさに引き金を引く直前まで、その社会が正常に機能する中に組み込まれている。あそこで『こうなってしまったらどうにもならない』ことを担っているのは、まさにそんな人間なんだ。ちょっとした駆け引き、それと思想。およそ人間が培ってきた事柄が無ければ、あの『こうなってしまったらどうにもならない』ことは起こりえないんだ。あれは大猿が大木を振り回しているのとは違うんだ。命乞いをしている人間が、まさに言葉の通じる相手に撃ち殺されるんだ。あれは野蛮ではない。あれは狂気ではない。あれは人間が汗水たらしてけなげにも積み上げてきた事柄の、一つの帰結なんだ。そう思ったとき、私はもうどうして良いか分らなくなってしまった。私たちはもうここまで来てしまった。いつ、どこで、誰が『こうなってしまったらどうにもならない』ことをぶっ放しても不思議じゃない。彼の動機も、彼の道具も、まさに社会にちりばめられている。SF小説なんて書かなくても、私たちはもう脅迫されている。誰が殺し、誰が生き残るかの場におかれてしまっている。冷静な取り決めなんて気休めに過ぎない。暫定的であることは、事態から目を背けていることに他ならない。ああ、私は馬鹿であればよかった。私は白痴であればよかった。何も認識せず、ずっと笑っていられる存在でいたかった。こうなってしまったら、もうどうにもならないんだ」
「おお、おお。わかったから、今すぐそのナイフをしまえよ」
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少なくとも、「日常」と呼ばれるものを営んでいる限り、いかに悲観主義者を装ったとしても、その本質はどうしようもない楽観主義である。
そしてそれは何ら悪いことではない。こうなってしまったらもうどうにもならない限りは。