原田のゴミタメ。

私が語ることは、すべて接頭に「私にとって」が与えられねばならない。我儘で、自分勝手で、醜く幼い私の誇大妄想。私的な論理の飛躍は決して万人に敷衍されてはならないが、万人が私の妄想を否定したとき、もはや私には生きる必要がないと思われる。せつに、そう思うのである。

Technocracy

モラリストどもは揶揄を続けた。夥しい数の作家、学者、人文主義者、知識人がそれに続いた。山のような罵倒の文句が生産され、豪雨のような風刺画が世に溢れた。表現は皮肉が激烈になるほどに研ぎ澄まされ、批評は人を刺し貫くほどになって賞賛された。尽きせぬ揶揄と皮肉が世に渦をまき、その真意を読解できることに人々は健全を見出した。罵倒が最高潮に達した或る夜、都市に巨大な産業機械が襲来した。四足歩行の怪獣のようなそれは、「technocracy」と印字された胴体を誇示するように、一歩、また一歩と街の区画を踏み潰していった。怪獣の呼吸は汚染大気の産生であり、自壊しながら行進するその後には、もうもうと煤を吐く変質した犠牲者たちの残骸のみが残された。

明らかに、その怪獣はある風刺画に描かれた皮肉の図像だった。皮肉は洗練の過程で魔性な魅力を帯び、それを苗床にしたある純粋な想像力が、当然の帰結として怪獣を現前させたのであった。

脆い部屋


 
 「ん?」

 男はその無音の箱に手をかけようとしたところで、始終を見守っていた機械化従者から静止を受けた。


 「その箱に手をかけるのはどうかご遠慮願います。それは、全く倫理的に禁止されております」


 「俺がこの箱を撫でるだけのことに、一体何の問題があるというのだ?」

 

 「撫でるだけのことで、一切が破綻してしまうのでございます。どうか」


 「ふん。くだらない。俺はここで誓ってもいいんだぜ? そっと撫でる以上のことは決してしないと」


 「無駄でございます。あなたが倫理的な個人である限りで、どうか、どうかその手をお下げになってはいただけませんか」


 「ではこうしよう。俺は全く非倫理的な蛮人だ。俺はこの場で、一切の倫理的要請を振り払ってこの箱を撫で触り、殴って蹴って、可能であるなら解体しよう。俺に一線を越させるか、それともただ撫でることだけを許すか。一つに二つだ」


 機械化従者はたじろいだ。「カッ、カッ」と何かが空回りするような音が聞こえたかと思えば、パチっと肩を落とし、祈るようにして言葉を再生した。


 「わかりました。あなたがなぜその箱を撫でてはいけないのか。その理由を簡潔にお話し致しましょう。これは、全く秘せられ、誰も知る所のない事柄でございます。それを開示する代わりに、どうか、どうかその場から一歩下がってくださいませんか」


 「ふん。いいだろう。ほら、この通りだ」


 男は両手を挙げて一歩下がった。


 「ありがとうございます。では、お話し致しましょう。その箱に触れてはいけない倫理的な理由を」


 
 ことは連鎖的に生起します。その箱に触れてはいけないのは、その箱を触れることによってあなたに生じる「箱の中身への衝動」を起こさせないためなのです。温度、振動、その他全ての諸条件が、あなたの神経組織をして箱の中身への関心を生起させることは決してない、と断言できないからこそ、箱への接触は全く倫理的に禁止されているのです。そうまでして、箱の中身は一体悍ましい悪魔的な代物なのかとお思いでしょう。しかし全く違います。いいですか、あなたが箱に触れない限りで、この箱が関係する一切には全く、微塵の倫理的問題も存在しないのです。ただ、あなたが箱に触れたその瞬間、万が一にもあなたに箱の中身への衝動が発生したその瞬間に、取り返しのつかない倫理的問題へのアクセルが踏まれるのであります。この箱は、この箱の中身は、全く倫理的問題の「生じ得ない」ものなのです。その機能だけ説明いたしましょう。それは、この館のエネルギー供給です。この館に住まう諸々の個人様が充実するために必要な燃料の生産と供給です。この箱が何であるのかという問いの答えはこれだけなのです。そしてここには、何の問題も生じていないのです。全ては円滑に、安定に、平和に、平等に、正しく運営されているのです。あなたがただ、ここから手を引く、それだけのことで、この世界の平穏は担保されるのです。


 
 俺は全く関心してしまった。はは。この従者、全く善意によって運営されていやがる。この説明を聞いたことによっても、俺の興味は十二分に刺激されちまったというのに、俺がそれを堪えて、笑顔で納得して手を引くことを本気で信じていやがる。そんなことがあるかよ。俺はやるぜ。そのためにここに来たんだからな。
 


 機械化従者はひたすらに体を揺すっている。何か取り返しのつかないエラーに見舞われたかのように、ずっと懇願している。


 どうか、どうか、どうか、どうか。
 
 「黙れっ!」
 
 俺は箱に手を伸ばした。
 
 「ああっ! 何をするっ!」
 
 従者が雷に打たれたかのように絶叫する。
 
 何かが弾ける音がした。
 
 箱は生暖かく、トン、トン、トン……と、微かに振動している。
 
 箱は何の抵抗もなく開かれた。まるで抵抗することを恐れているかのように。
 
 その瞬間あらわになったものの悍ましさに、俺は生理的嫌悪を禁じ得なかった。
 
 なんと形容したら良いだろう。いや、これはとにかく「生命」だ。明らかに脊椎動物、哺乳類か何かで、不完全な四肢があり、しかし完全な「頭」はどこにもない。そのかけらのようなものは体のあちこちから発生しようとしているように見えるが、まさにそれぞれに挿入された電極がそれを封じ込めているように見える。毛で覆われた首筋から外部に太いチューブが繋がれており、その中を赤色の体液が脈打つように流れていく。「そいつ」は微動だにしない。しかし「そいつ」は確かに生きており、生きようとしている……。俺は耐えきれずに機械化従者を振り返った。
 
 「これのどこが『倫理的』だってんだ!」
 
 「問題は貴様のその頭の中だ! 死ねっ! 失せろっ! この悪魔ぁ!」
 
 次の瞬間、男の脳髄は機械化従者の銃撃によって吹き飛ばされた。
 
 倒れ込んだ男が取り落とした箱の蓋から、一片の紙片が剥がれ落ちた。
 
 「私は全ての個人に謝罪しなければならない。私の作為は不完全に終わった。
 私は、『生命の活力』のそれを、科学的に抽出し、一個のエネルギー源に加工しようとした。生物の体はまるで神秘だ。ただ生存を確保するだけで、膨大な分子を変換し、エネルギーを循環させる。これを利用しない手はないと考えた。しかしここには大きな問題があった。『倫理的な問題』だ。この生物に「意識」があるならば、それはこの世界に一個の被害者を生み出すことになってしまう。ゆえにまず第一に、私はこの生物の発生を始まりの分子から監視した。倫理的公平性のもとに公開されている世界各国の研究成果を参照して、全く意識などあり得ない数種の分子から、こうして一個の生命を誕生させたのだ。生殖能力のある生命が一個できれば、あとはそれを殖やしていけばいい。私はこの生物種の全ての細胞発生を記録し、およそ意識の発生しうるネットワークが生じないようにした。その萌芽となる組織発生は可能な限り抑制した。ただこの個体の生存と代謝に必要なタンパク質合成経路のみが機能するように効率化を測った。そして系は完成した。まだ動かしてはいない。動かす前にしなければならないことがあるからだ。しかし、しかし、この後に及んで私はどうしてもこれを抑制することができなかった。それがこの『生命』のかたちだ。四肢のような器官形成、脈動と体温は、これをエネルギー源として十全なものにするためには削りようがなかった。可能であれば削りたかった。しかし、試みたが不可能だった。この忌々しい、いや素晴らしい『生命』は、どのような条件であろうと生々しく『生命』の様相を発現し続けた。私の生涯はただその阻害の試みに費やされたと言ってもいい。しかし無駄だった。私はもう限界だ。老いが、手の震えがことを不可能にする。私は死ぬ前に、そしてこの系を動かす前にしなければならないことがある。タイムリミットだ。この『生命』、私が厳重に残す資料を参照すれば何人たりともそこに「意識」の発生を認めないこの『生命』は、しかしその生々しい形質を残したまま運用する他ない。引き継ぎようがないのだ。この研究は。ここに認識を営む他者が居てはならない。そしてこの『生命』の実際は、およそ意識ある個人に知られてはならない。『生命』の情報が他者に知られたとたん、そこに倫理的問題が、一切の問題の源泉が生じてしまうからだ。そして私にはやることがある。ゆえに私は、自身の倫理的良心に従ってこの不完全を全ての個人に謝罪する。
 
 私、門戸冷蔵は、この新型発電機『生命』の開発に関して、いかなる倫理的苦痛も感じなかったことを、ここに本人の責任において宣言する。むしろ私は、全くの倫理的充足を覚えながらこの研究に従事した。そして私は、この装置の使用において、いかなる運用にも倫理的制限を置くものではないことをはっきりと宣言する。私が以下に述べる使用法に則って運用される限りで、つまり、私が別個に開発したロボットの指示に従う限りで、いかなる使用も私は許容し、奨励する。そして私は、この『生命』の開発に関して、この生物の形態が私の心に与えた「生理的嫌悪」について、一切を許容する。私はこの生物の発生をモニタする過程で、「これは冒涜ではないのか」と考えたことがあった。しかし『生命』は主体ではない。そしてこの研究の事実を知るものは私のほかに存在しない。ゆえにここにいる倫理的主体はただ私だけである。つまるところ、この営みの「被害者」である私は、ここに全てを許し、むしろ幸福であったと感謝する。そしてこの営みの「加害者」である私は、この件に関する全ての「被害者」(それは私と、そしてこの事実を知る者のみが該当しうる地位である。そしてこの宣言は誰にも公開されない)に対する贖罪として、ここに謝罪し老衰する。『生命』は、私の意識が完全に消滅した後に起動する。最後に繰り返し宣言する。この件に関する唯一の倫理的主体の源泉である私は、一切を許容し、奨励し、感謝する。私は真に幸福であった。」

自我とぎこちなさ

 

現象学という思考』の第5章「自我」を読んでいて考えたことを記しておく。

https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480016126/

 

本書は、私たちの日常の経験に照らしながら、現象学の概念を紹介していく構成となっている。

その第5章「自我」では、以下のような内容が展開される。

 

我々の日常経験において、(現象学的な)自我や意識というものはそれほどありありと現前しているわけではない。

我々の都度の経験は、「自明性」や「確実性」、つまりその気になれば疑い得るが、しかし日常的な行為においてはほとんど気にとめずに前提してしまっている事柄が、つっかえることなく無意識的に進行しているものだと考えられる。道を歩行するとき、私は手足の一挙手一投足を意識的に指令しているわけではないし、マーケットの会計ではほとんど無意識のうちにポケットから財布を取り出している。

しかしながら、こうした経験の進行はふとした時に破れることになる。それは、例えば机の上に充電してあるはずだと思っていた携帯がなかった時、またじゅうぶん余裕があると思っていた冷蔵庫の牛乳が、全く空っぽだった時などであり、こうした場合、「こうであるはず/そうであるはず」だと前提していた自明性が一時的に破れているのである。

現象学的な自我は、こうした「自明性の破れ」にこそ顔を出す。予想を裏切る経験にあって我々は何か対応を迫られるわけだが、この時、判断の主体としての「自我」が否応なく呼び出されるのである。我々の「自我」は記憶を辿ったり(はて、携帯はどこにおいたっけ?)、予定外の計画を立てたり(今からマーケットに走れば牛乳を手に入れられるかしら)して、少なくとも無意識とは言えない、意識的な行為・思考を働かせることになる。半ば強制的に判断の主体となることから、「自明性の破れ」は「自由」の契機にも見立てられる。

 

こうした記述を読んでいて、私は違和感を覚えた。

日々の経験の進行は、ほとんど無意識のうちに進行するという。しかし本当にそうだろうか。

本文では、自宅へ帰宅する場合が例に挙げられている。手足の動きはもちろん、道順や景色といった、自分にとって「当たり前」の事柄は、それこそ足が突っかかって経験が撹乱されるのでもない限り、ほとんど意識を喚起しないのだという。

しかし少なくとも私の経験において、研究室を出て自宅に至るまでの道のりは、毎時毎秒が「意識」に塗れている。道の凹凸は次の瞬間の「じゃあこっち側を歩こうか」という判断を喚起し、通り過ぎる楽しげな一団は「私」の羨望や惨めさを喚起する。信号に引っかかった時などは、ただ立ち止まるのではない。空を見上げ、道の向こうの古本屋を一瞥し、通過する車を凝視したりして、もちろん「ぼんやり」とはしているが、少なくとも「私」という意識は溢れていて、むしろ惰性的に垂れ流している感すらある。

 

これは一体どう考えれば良いのだろうか。もちろんこうした「垂れ流された意識」など、議論されているような「現象学的意識」とは程遠い妄想だと処理するのが一番簡単だろう。あるいは上に列記した「私」の意識は、今この文章を書いている「私」が脚色を入れながら「思い出した」もので、その時のナマの意識とは異なるものだとも考えられる。しかしこれらの説明は、本文で議論されている「現象学的自我」と「私」の経験との間の溝をスッキリ埋めるようなものではない。

 

こんなふうにモヤモヤしているうちに思ったのが、「ぎこちなさ」という事実である。かつて強烈に悩んだこともあるように、私の一挙手一投足というのは要するに「ぎこちない」のだ。挙動不審で落ち着きがない。

この「ぎこちなさ」をヒントにすれば、「私」の個人的経験と「現象学的自我」を連結することができるのではないか。つまり、私の個人的経験を、説明されているような「自我」の一事例として整理することができるのではないか。

 

なめらかな経験が破れる時、「突っかかる」という表現に顕著なように、人は「ぎこちなく」なる。

そして「経験の破れやすさ」というのは、きっと個人差のあるものなのだ。つまり私の場合、つつがない経験というのは非常に脆くて、些細なことで「突っかかり」、破れてしまう。そしてそのたびに私は「ぎこちなく」なり、意識を飛び散らせることになる。程よい間隔で召喚されればそれで良い「自我」が、引っ込んだ側から再召喚されることで、人は「ぎこちなく」なる。

 

街を歩いていて、ひどくぎこちない人を見かけることがある。

あるいは人と話していて、会話がなめらかさからは程遠い有様であることもままある。

こうした時、人は「意識」を、「自我」を働かせているのだと見れば、なんだかうまく説明できたような気になる。

要は、「次はどうするべきか」という、「自我」を呼び出し判断するプロセスが忙しく稼働しているわけだ。

私がまさにそうであるように、一挙手一投足がぎこちない人間というのは、「不安」というものがとても近くに感じられるのだ。現実とは改めて考えるまでもなく常に目の前に、未来に現前していて、私を苛み脅迫している。こういう状態にある人間は、常に主体として「判断を下す」必要に迫られる。取り立て屋がいつも近くにいて、毎時問い詰めてくるようなものだ。

もちろんここに合理主義者やモラリストが出張る余地はない。「必要のないことに判断を下そうとする意味はない」「そうした精神状態は好ましくないものだ」というのは、まるきり的外れな雑音である。私は私のような個人の所感や特徴について書いているのであって、ここでそのくだらない良し悪しを議論するつもりはない。

 

まとめるならば。

「自我」というものは、確かになめらかな経験の破綻によって表出する現象である。

それは「判断を迫る」という形式を持って、「私」という意識に問いにかかる。

そして「自我」の現れやすさや「自我」の度合い、つまり「無意識的な経験の破れやすさ」というのは、かなり個人差のあるものである。

それは、一つには「ぎこちなさ」という特徴を伴い、観察することができる。

 

あるいはこれは、否定し得ない「私個人」という感覚、社会にあっては時として軽蔑を伴って「幻想」と呼ばれるその感覚の契機であるのかもしれない。常に「自我」を召喚する人間にとっては、意識的な「私」という状態それ自体が「日常的経験」の特徴になるだろう。常に呼び出され稼働し続ける「私」は、何か統一的な価値体系、少なくとも「一貫した私」という状態を要求するのかもしれない。そのような「私」という存在者を尊重の第一におく個人主義は、こうした日々の「ぎこちなさ」の連続から生起してくるのかもしれない。思い切って飛躍してみるならば、このような「個人」という感覚は、幻想どころか現象学的事実でさえあるのかもしれない。もちろん、たとえ個人が幻想だったとしても、それが直ちに無意味と同値であるとはいささかも思わないが。

 

少なくともなめらかな経験とその破れが、人によって異なる強度をとりうるということ。

そしてこの個人間の差異が、善し悪しとは独立な、少なくとも先だった、個人の日常的現象に属しうる事柄であること。

これは、「現象学的自我」の議論を何か規範的な結論に持っていく際に、じゅうぶん考慮に入れる必要がある点だろう。

個人が我が事として思い起こす「日常的経験」に、絶対的な普遍などないのだから。

 

(終)

 

 

 

自己を知れという要請について

 

「己を知ること」、少なくとも「自己を知ろうとすること」は確かに重要だ。無意味ではない。しかし、これほど答えを「確定」させることの虚しいテーマも他にない。

 

だってそうだろう。一体我々は何のために己を知ろうとするのだろうか。おそらく自発的に「己を知る」という文言を発する多くの人は、それによって自己改造ないし自己発展、啓発と有意義な前進を遂げるためにそう発信するのだろう。しかし少し考えれば、これが全く意味不明であることがわかる。

 

というのも、そのような「目標」をもって自己を探索するということ自体が、既にして「自己を知る」という営みを破綻させているからだ。そこで見出される自己とは、そのような目標に資するような、あるいは「矯正ありきの」、さながら否定待ちの自己でしかない。

 

だいたい、目標がまずあり、そのために探索される自己が、どこまで「本来の」自己だと言えるのだろうか。このように言うと、そもそも「本来の自己」などあるのかという文句が飛んでくるだろう。しかし、全くもってその通りなのである。

 

本来の自己というものが、そもそもにしてナンセンスな存在なのだ。自己というのは、今ここにあって何かを欲する「私」以外の中ものでもない。それ以外に自己などない。本来の自己など、沈思黙考して探索すべき、意味のある自己など存在しない。

 

では、世にあって「自己を知れ」と言われるときの「自己」とは一体なんなのか。思うに、それは都合のいい仮面、なりきって有意味に生きるための依代、要は、依存できる耳触りの良い概念であれば何でもよい何某かであるのだ。もちろん、この話は善悪とは関係ない。

 

だから、「自己を知れ」というのは、「目的に合致する都合の良い自己像を作れ」「そのために『生きる』ことができるような理念を人造しろ」という意味でしかない。この「自己」なるものは、要は「生きがい」でも「生きる意味」でもなんでもい、依存に足る「それっぽい」概念であれば何でもよいのだ。

 

故に「自己を知れ」という要請は、何か他に目標があって問われる限り、それ自体としては虚しいだけの概念だ。それを問う者のほとんどが、「本来の自己」などハナから求めていないのだから。少なくともそこで見出される自己は、方向性、つまりは強いバイアスの元に取り出された、少なくとも一面でしかない。もちろん、生きるに足ると個人的に信仰できるような、あるいは、非常に快く心強い社会的仮面を鋳造することは、それはそれで有意味で、必要なことではある。しかしそれなら、もっとそのようなことを、「自己」などという曖昧な誤魔化しを交えずに探索すべきだ。誤魔化さずとも、何かを纏って生きること自体、特にやましいことではないだろう。

 

ところで、まさに「自己を知りたい」という目標を持って臨めば、この文字通りの問いは有意味なものになりうるのだろうか。これも怪しい。知ろうとして知りうる自己など、その都度方向性を持って繰り出される「問い」を満足させる「側面」でしかないだろう。そしてそれは、各瞬間に相対的なものでしかないだろう。

 

そしてそこで得られる「答え」に満足してしまう時点で、彼は自身が求めていたものが「本来の自己」などではなかったことに、いやがおうでも気付かされるのだ。
かように、「本来の自己」なるものを知ることは虚しい営みである。

 

あるいは、ひょっとすると、「本来の自己」というのは、問わずとも「俺はこういうものだ」と気付かされる事柄の集合であるのかも知れない。それは日々の挫折や不快、あるいは快の場面に、はたと「我に返った」場合にのみ、「わからされる」ものでしかないのかも知れない。

 

少なくとも言えるのは、それを知るためには、生きるほかないということだ。これも一つの脅迫である。

 

 

ある恐れ

 

 何か人種差別的な考えや主張をしている人々に対して、毅然と「レイシスト!」と糾弾する人たち、そして最近は、人種差別的な人々の言説や振る舞いを、揶揄や皮肉、嘲笑を交えて「レイシスト」と指摘しているような人たち。

 

 もちろん、彼ら彼女らが「レイシスト」という指弾の下に相対しているのは少なくとも何らかの意味では確実な人種差別主義者であるのだが、しかしその糾弾の有り様、先進的(?)世界的嘲笑の有り様、すなわち、健全から異端への毅然とした嘲笑の有り様を見ていると、不思議と、歴史的教科書的な「差別主義」の営みそのものを見ている気分にさせられる。

 

 これは私がある種の相対主義者であり、少なくとも消極的差別主義者であるが故にそう見えてしまうのかもしれないが、たとえそれが許されざる(つまり端的な加害としての)人種差別主義の言説だとして、そうした言説に対し、あるいは「そのように見える」言説に対して、どんな時にも厳しく毅然と「レイシスト!」と糾弾を実行する様が、時として非常に暴力的に見えて仕方がないことがある。

 

 これは私の頭が悪く、また人権的啓蒙が足りていないために生じる迷妄だと思うのだが、そのような反差別主義的運動は本当に「間違いのないもの」なのだろうか。目の前にある健全は信用に足るものなのだろうか。常に間違うことのない正しさというのがあり得ないということは、おそらく多くの人が同意するところだろう。しかしならばこの反差別主義的言説の営みでなされている「糾弾」は、万が一間違いを含むものだとして、取り返しがつくようなものなのだろうか。倫理的に愚かな相対主義者であるところの私には、そこに誤りがあるとして、それが残虐な「差別主義」の再現、再来であるように思えて仕方がないのである。

 

 私は差別主義そのものを絶対悪であるとは見做していない。愚かな私は、区別とは全て一時的に正当化された差別に他ならないと考えるが故に、少なくとも現実において差別主義と手を切ることは不可能だと妄想している。故に私が差別主義を「恐れる」のは、それが端的な(私を向くかもしれない)加害であり、暴力であるためだ。そして私は、全く同じ恐怖を、反差別主義運動に覚えてしまうのである。

 

 

M園長の笑顔

 

先日、非常に痛ましい事件が報道された。

幼稚園の送迎バスに取り残された園児が、熱中症で亡くなったというのである。

その後、事態を受けて園の会見が開かれたのだが、この会見がまた大きな波紋を生んだ。

会見の終了に際して、当事者であるそのM園長が、笑顔をこぼしてしまったのである。

 

しかしながら、この笑顔というのが、又たいそう不思議なものであった。

 

私がこの園長の笑顔をはじめて見たのは、起きて朝食を食べながら、SNS上で適当なニュースを眺めていた時だった。

件の動画は、会見の様子を見ていた第三者が憤りのコメントと共に切り抜き投稿したもので、会見の終わりにあってまさに園長が笑顔を漏らすその瞬間をピックアップしたものであった。

私はこの動画を、「園児を車内に取り残し、挙句死なせてしまった事件の会見」という前提知識のもと眺めた。

園長が笑顔をこぼした。想像以上の笑顔であった。

私は「これは酷い」と思い、あまりにも酷いので、「うわぁ」という皮肉じみた嗤いを溢してしまった。

 

私が二度目に園長の笑顔を見たのは、すっかり陽が落ちたその日の夜に、大学を後にし、近所の定食屋で夕飯を済ませた直後だった。

日中をとりあえず乗り越えた疲労感と、腹を満たした多幸感。

こうした所感の中でSNSを開いた瞬間、偶然にも、この園長がまさに笑う瞬間の動画が目に入ったのである。

咄嗟のことだったので、私はこの動画を「なんだか知らないが、重要そうな会見で『笑み』をこぼしてしまったおじいさん」のものと認識した。

園長が笑った。全く屈託のない笑顔だった。

つられて、私も思わず笑みを溢した。

自然と独り「ふふっ」となったのである。

 

むろん動画は朝見た会見と同じものであって、改めて状況を踏まえると、確かに園長の「笑顔」はとても酷い。

それこそ世間が騒ぎ立てているような「無責任」「他人事」の語がピッタリ当てはまるようなものである。

しかしながら、園長の笑顔を繰り返し眺めてみても、笑顔それ自体は、まさに「屈託のなさ」に塗れた、どこにでもあるようなものだった。

以下は全くのでたらめであり、妄想であるが、しかしあのような笑顔がこぼれるに至った経緯は容易に想像できる。

長い、とても重い内容の会見が終わり、気が緩む。そして「再発防止に努めます」云々のお決まりの口上を述べ終え、しかし言われてみれば、そもそもこのような重大事件を起こした園が存続するかも怪しい。確かにそうだ。はは、これは「廃園になるかもしれないね」と。

 

ホッとしたときにこぼれる「笑顔」。

皮肉でも揶揄でもない、言ってしまえば理性から解放された、「狡猾」や「悪意」なんてものは微塵も含まれない、人間の当たり前の「笑顔」

「状況」によって全く信じられない様相を呈してはいるが、しかしあそこにあるのは、まさにそのような「笑顔」であった。

モラリストであれば、ああいうことをしでかしてしまう人間や、それを可能にする社会・集団を「異常」だの「論外」だのと呼びならわしてしまうのだろう。あれは「非道徳的な」パーソナリティ、「杜撰な」環境の中で生まれた「お話にならないもの」だとカテゴライズしてしまうのだろう。

しかしながら、あの笑顔は、我々が普段すれ違う、どこにでもいる人間がこぼす「当たり前」の笑顔であった。

もちろん、今後の報道で、あの園長の「普通ではない」精神性や、「考えられない」ような半生が詳らかにされる可能性はある。

けれども、部外者である私には、少なくとも報道された「笑顔」それ自体に、倫理的に責められるべき「悪」を見出すことはできなかった。

 

もちろんあの状況で「笑顔」をこぼしてしまうというのは、全く考えられないことである。

私は当事者でないからこそまさにこのように「他人事」としてものを捉えてしまっているのだが、しかし怒りと悲しみに心を失くしてあの場に居合わせた当事者からすれば、園長の笑顔は言語を絶する、ほとんど「加害」と言ってもよいくらいのものだろう。

状況というのは恐ろしいもので、悲劇の当事者から見れば、ひょっとすると、この件に関して「部外者」「第三者」としてものを喋る全ての存在が「二次加害」に映るかもしれない。彼らからすれば、これは紛うことなき真実である。

 

今回それぞれ異なる所感をもって二度「笑顔」を眺め、私はかつての自分の妄想を思い出した。

かつて私は、道ゆく人がこぼす全ての「笑顔」がある種の「加害」に見えた。

結局のところそれは、漠然とした不安と惨めさが織りなす、ひねくれた「妄想」でしかないのだろう。

彼らに悪意などあろうはずがない。端的な被害妄想である。

実際、今回の件は私に以下のことを確信させた。

第一に、屈託のない「笑顔」というのは、以前私が自分勝手に妄想していたほどには「悪」ではない。

「笑顔」というものは、かつて「笑顔」一般を嫌悪していた人間をしてすら、見ていてつられて笑顔にしてしまうほどの力を有している。

これは普段「笑顔」の素晴らしさとして語られる要素であろう。

笑顔を純粋に擁護し、笑顔のために日々を営む人々は、このことを念頭に置いているのかもしれない。

 

しかしながら「悪意」とは無関係に、確かに「笑顔」は加害性を帯びたものである。

状況と、然るべき所感をもって場に臨めば、「笑顔」は「悪意」とは全く関係なく、人を傷つけ侮辱する凶器になりうる。

 

今となっては、私は日々の忙しさと、目の前に積み上がった明瞭な「やるべきこと」の山を前に精一杯であるので、よほど打ちひしがれた時でなければ「笑顔」が「加害」に見えることはない。

しかしM園長の屈託のない「笑顔」は、少なくとも当事者にとっては純然たる「加害」である。

もしかすると、かつての私、あるいは、然るべき状況に置かれた私からすれば、誰のものとは問わない「笑顔」一般もまた、文句なしに「加害」であったのかもしれない。

ある惨めな、悲惨な状況に置かれた当事者からすれば、「笑顔」もとい「他人の幸福」は紛れもない「加害」であろう。

しかしその種の「加害」は、かつての私の望みに反して、現状の倫理的善悪が問題にするところではない。

どちらも加害であるならば、加害と善悪にはなんの関係もないことになるだろう。

少なくとも「笑顔」に関して、「加害」と「悪意」は分離可能であるのだ。

 

 

正当化された差別

差別というものがある。辞典で軽く調べたところによると、それはおよそ全人類平等の理念を前提する限りで、他のいかなる点から見ても不当な行為であるとされている。そしてまたその定義用法は古今東西津々浦々に多様であり、端的に言えば、どう足掻いても人間は差別者でありまた被差別者であるのだという。なんということだろう。もし本当に差別が許されざる不正であり、そして私がおよそ公の理念なるものが成立する社会で寝起きするとしたのなら、私は差別行為を働かなければ、おそよいかなる社会的行動も果たし得ないというわけだ。

 

というわけで、許されざる差別者たるこの身を社会的に呪いながら、私はまた一種の社会的行動に手を染めようと思う。つまり、非常に稚拙で見苦しいものであることを重々に承知の上で、自分の考え、思っていることを述べるという行為に手を染めようと思う。

すなわち以下に書き連ねるのは、「正当化された差別」という、きっと現実に起こっているだろう事柄の記述である。尤もこの中で私は、「差別」という語を、「区別のうち、被害者の生じるもの」「その区別によって、当人の望むあり方が否定されるもの」といったニュアンスで用いる。もちろんこう定義したからといって状況が変わるわけではない。人は誰しも差別者であり被差別者である。戯れに覗いてみた辞典で、日頃の妄想が神妙に記述されているのには面食らった。この世から差別は無くならない。人間が人間である限りは。そしてそれは、善悪とはなんの関係もないことだ。あるのは端的な加害と被害、快と不快だけである。

 

「正当化された差別」というものがある。「差別」がいかに広がりを持った概念であろうと、それは明らかにその直球ど真ん中をゆく行為であり、しかし今現在「仕方のないもの」として見過ごされ、あるいは促進すらされている行為がある。ここでいう「正当化された差別」というのは例えばあの欧米での積極的差別 positive discrimination を含むものである。そして前向きな施策である積極的差別がしかし否応なく被害者を生むものであるのと同様に、いやむしろこの「正当化された差別」は時としてそれ以上に、残酷な仕方で害を被る被害者を有している。すなわち彼は、自分の存在自体を公的に否定されているといっても過言ではないのだ。そしてその差別は、字義通り、正しいこととされている。

 

例えばゾーニング、「公共の福祉」や制度的公平(上述の積極的差別など)は、「正当化された差別」の一種である。すなわちこれらは、本来不当なものとされている「差別」がかろうじて「正当化」されているにすぎないものであり、「正当化」の下に黙認されるその細道を万が一にも踏み外したなら、たちまちにおぞましい迫害、ジェノサイドに転化するものだ。ゆえにこそ、これら概念の取り扱いには最新の注意が必要となる。SNS上では、これら「正当化された差別」をあたかも「現代社会では当たり前のこと」であるかのように扱い、これを持って「こんな当たり前のことも理解できないのか」と呆れたそぶりを見せている人たちが大勢いるが、端的に言ってそれは事の重大さを軽視した行為であり、導火線に火のついた爆弾を「正義の鉄槌」のように振りかざすようなものである。危ない。その糾弾の矛先が自分に向いた倫理ほど恐ろしいものはない。ただでさえ我々は皆差別者であるというのに。およそ倫理が幅を利かせる限りで、我々は「自分であることの倫理的問題」という業病を抱えざるを得ないのだから。

 

話を戻そう。「正当化された差別」というこれらの事象は、しばしばその正当性を無遠慮に拡大して「適切な『区別』と変わりないのではないか」と議論されたりする。しかし以下に見るように、どのように取り繕っても「正当化された差別」はまず第一義に「差別」なのであり、曖昧で漠然とした「正当化」に身を隠しているだけなのだ(かわいいね)。

あなたが考えうるうちで最も下品な、最も低俗で卑猥で不愉快な嗜好を考えてみて欲しい。それらの嗜好、信条は、なるほどその公での表明が「公共の福祉」によって規制される類のものだろう。しかしどれだけ汚く不快な嗜好であったところで、それらが「公共の福祉」により社会的害としてタブー視された瞬間、次のおぞましい疑問が生じるだろう。

 

すなわち、「そこで公に規制される人間は、果たして本当に『公共』に含まれていると言えるのか?」

 

もちろん言えるだろう。公共の福祉は社会秩序になくてはならない。いうならば、彼は自分のあり方を公的に否定・制限されることで「社会に生かされている」のである。しかしながらこのような恩恵の享受は、何も彼だけに限ったことではない。およそ社会の構成員である限りで、誰もが等しくこの恩恵「社会で生かしてもらえる」を享受している。ゆえに次の問題が残ったままになる。

 

すなわち、「彼のあり方に対する規制は公平なのか?」

 

ある者は規制に特段の違和感を覚えずに恩恵を享受する。しかしこの彼は自分の趣向、望むあり方を制限されて初めて恩恵を享受する(でないと彼はサイコパス扱いだ。人格を持った存在として尊重してもらえない)。この差は果たして公平だろうか。彼自身が自分で納得する限りは、自分の中で自分の言葉で折り合いをつけ、幸福にやっていく限りはかろうじて公平だろう。しかし彼でない他者がそれを要求するなら、そこに生じるのは端的な被害・加害の関係だ。

ここに多様性社会(今ここでこさえた造語)が直面する不可避の差別が発生する。ある規制、趣向の否定が社会的要請によってなされるとき、彼は強制的にあり方を否定される。これが差別でないとしたらなんであろう。およそ大多数を賄う「社会」があり、こういった「差別」が社会の構造上仕方のないものだというのなら、否応なく被害者の発生するこの「差別」現象をあくまでも「正当化された差別」と呼ぶことは、建前だけでも「正しさ」なるものを掲げる人間の義務であろう。

 

以上を踏まえるならば、この我らが「正当化された差別」を端的な「区別」なる語に置き換えることがどれだけの暴力であるかがはっきりする。それは「正当化された差別」によるやむを得ない被害者の抹消であり、純然たる迫害なのだ。抹消された被害者が、現実社会にどれだけのフィードバックをもたらし得るかは、彼らの腹の底の人間本性のみが知るところである。

 

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青二才が以上のようなことを言うと、おそらくは一定のコミュニティで暗黙の合意の下にある「常識」や、あるいは(統計的)科学的な「検証可能性」の刃、またあるいは神聖化された「国際基準」なるものをもって、「〇〇なことも理解できないのか」「こんな『当たり前』なことも理解できないのか」といった、毅然とした文体で呆れたそぶりを見せるあの「お叱り」が飛んできそうなものである。しかし無知で無思慮なこの青二才、現実嫌いで妄想好きの理想主義者に言わせてもらえるなら、こんなことを言う彼らの方が遥かに現実に対し不誠実なのではないか。なぜなら上記の文言は、「〇〇を理解・納得できなければ正当な社会の構成員にカウントしない」というなかなかに端的な差別意識の表明のように聞こえるからだ。少なくとも現実の社会にあっては、現状、人間である以上は誰もが人格とその可能性を尊重される。そうした人たちの中には、世人が考えもつかない次元で理解と納得を拒む者もいるだろう。現に何か社会的な存在に対して、これまで一つの不満も出なかった事例があるだろうか。どのような存在に対しても常に必ず不平不満が叫ばれる。なんの留保もなく無条件に振り翳せる「当たり前」など、出来の悪い創作物以上に現実性を欠いた絵空事にすぎない。もちろん、差別が「ダメ」だと言うのではない。上記を踏まえるなら、何かを徹底的に消滅させてしまおうと徒党を組んで行動することほど人間の差別性を助長させるものはない。我々は皆差別者であり、被差別者である。他人を不快に思うその姿はまた側から見て不快であり、許されざる「当たり前」の損壊が人を正当化された「差別」に駆り立てる。被害者が生まれ、軋轢が生まれる。健全の名の下に呪詛に満ちた慈しむべき日常が営まれる。善も悪もない。あればどれだけ怠惰に済ませることができただろう。