私はこれから馬鹿げた話をする。
日常で感じたふとした不安を、たまたま目に入ったネットニュースと混交させて、陰謀論じみた被害妄想じみた疑問の表明を行い、個人的な信条を記述する。
これはきっと、私が思う以上に人の好むものではないのだろう。なぜなら私は子供じみていて、なにより倫理や道徳が嫌いであるからだ。
私は世間知らずであるのだからよくは知らないが、きっと健全な人間とは、倫理を愛し、冒涜的話題に憤ることのできる道徳的な人たちなのだろうから。
私は倫理学の講義をとっている。もともと哲学に関心があるというのもあるが、これまでの歴史の中で、また今まさに議論されている倫理的な話題、議論、論理などを知らずに、単に「倫理は嫌いだ」と叫ぶことの幼稚さから脱したいというのもあるかもしれない。この辺りはよくわからない。やっぱり、単に哲学的な議論にわくわくするというだけのことかもしれない。何かが嫌いだと叫ぶことは幼稚でも、そもそもすべての始まりはそうした好き嫌いといった幼稚な、気取って言えば「原始的な」ところから始まるとも思っている。
私が今とっているのは、倫理学でも、特にメタ倫理という話題を扱う講義である。すなわち,倫理的価値観そのものにとどまらず、倫理・道徳の背景や、その存在自体を問うていく学問ということになる。講義はとても楽しい。ある考えられた倫理学説が登場したかと思うと、たちどころに反論、批判が唱えられ、そしてまた次の説明が組み上げられる。およそ倫理というものに、およそ道徳というものに、少なくともこれまでは何ら「絶対」などありえなかったのだということを体感できるのは、俗ながら小気味よい。
しかし違和感を覚えることがある。というのも、このようなメタ倫理の講義にあって、議論の方向はなぜか「妥当な倫理学説」を模索するほうに向かっていくからだ。一度、倫理的相対主義が議論に上がったことがあった。すなわち,あらゆる倫理観は相対的でしかなく、そもそも万人に絶対的な倫理を組むこと自体が不可能だという主張である。私はそれを大変説得力のあるものだと思っていたのだが、しかしこの説は「パラドクスを含む」「問いかけに応じておらず、不誠実だ」ということで、あっさり棄却されてしまった。もちろん、講義として相対主義ばかりを扱うというのはシラバスからして偏りになるし、こうして書くと乱暴に見える棄却だって、次の倫理学説へのつなぎとして至極妥当なものであるのだろう。単に私の頭が悪いというだけの話かもしれない。しかし、メタ倫理と銘打たれておきながら、何か絶対的な倫理があるかのように、倫理が無化されてしまわないように進んでいくこの事実に違和感を覚えたというのも、また私にとっての事実であるのだ。まあどうでもよい。私は道徳が嫌いだ。
話を戻そう。倫理の講義には、よく極限的な事例が登場する。すなわち,友人を殺人犯からかくまう羽目になった市民とか、乗客を救うために一人の通行人を轢かねばならなくなった運転手などが登場する。受講者である我々は、こうした事例を題材にして、倫理とは何かと唸るわけである。
次のような問いがある。「多様性が推奨される社会において、多様性に反対する市民を包摂することは矛盾なのではないか」「差別に反対しておきながら、差別主義者を否定するのは矛盾なのではないか」
我々はこれを極限事例だと考える。すなわち、例えば鮮烈なナチズム的思想を掲げる「差別主義者・優生主義者」が壇上にいて、多様性に配慮された社会を困惑させているような、そうした図像を想起する。
しかしながら、本当にそうなのだろうか。確かに、極限事例の多くは、日常的な部品をまとっていながら、多くの人が一生に一度体験するかしないかといったものだ。個人的には、より日常的な題材でも同じ説明は可能だと思うのだけど、そうした例(例えばカレーを食べる「べき」か食べる「べき」でないかといった例)が人々を「深刻な」倫理的ジレンマに導く好例となるのかは判断がつかない。しかし極限事例であっても、そこに登場する人物たちは、まさに講義を受けている我々自身であるはずだと、本来そうなのだと、思うのである。
端的に言えば、我々はまさにその倫理的問いによって、踏み絵のようなものを迫られているのかもしれないと、思うのである。
「差別主義者」の問いについて考えてみる。「多様性を揺るがす差別主義者」という存在が立てられたとき、我々は、何か積極的に差別を働く人間を想起するのではないだろうか。それこそ見るに堪えない悪人、野蛮人のような。
しかし冷静になってみれば、この「差別主義者」とは、まったくそのような悪人の姿をしていないのである。なぜなら、この「差別主義者」「多様性反対者」というのは、まさに日常に生きる我々に他ならないのであるから。
倫理的非難がやり玉に挙げる悪人とは、何ら空想上の存在ではない。何か絶対悪のように糾弾される属性は、それこそ学校の友人、挨拶を返してくれるご老人、駅員、街を行き交う人々がみな当然のように持っている価値観なのだ。
これに関して、例えば「本を焼く」事例を挙げてみよう。何ら空想上の話ではない、呪うべき社会で現実に起こっている現象だ。すなわち、古典的な作品が、現代の価値観に合わないとして棄却されていく現象である。
古典的な作品が「差別表現を含む」として燃やされるとき、我々の多くはそれに眉を顰め、作品や作者を擁護するだろう。「時代の価値観を反映した作品を、のちの価値観で裁くのは理不尽だ」と反論するだろう。
しかし倫理感に執心する人々、差別撤廃主義者たちから見れば、こうした反応自体が、「差別」に存在の余地を残す差別主義者のふるまいであるのだ。
これは至極当たり前のことである。正義感からか、倫理観からか、とにかくある A を断固として憎み、悪しき A を根絶しようとする人がいれば、A の存在自体を抹消してしまおうと考えるのは自然であろう。そういう人たちにとっては、A をかばい、A に存在の余地を残そうとするすべての人間が敵対者に見えるだろう。
彼らはまさに「疑わしきは罰する」の状態にある。差別撤廃主義者から見れば、判断を留保する人間すら差別主義者に他ならない。絶対悪があり、その断罪に躊躇する人間があれば、そいつは悪魔に他ならないというわけだ。一つの真理、一つの正義を断固として主張する人間にとって、相対主義は善悪二元論と変わらない。
だから我々は、あらゆる倫理的問いかけと、仮定的結論に、疑いを向けなければならない。カントはどんずまりの懐疑論を「批判」をもって乗り越え、実践に光明を開いたが、その実践が誰かを何かを害するのならば、懐疑の渦のほうがましである。これは「実践は害をもたらしうる」という、想起されたヒステリックな可能性の話ではなく、現実に実害として起こっている事柄についての話なのだ。
実践が道徳に基づく正当なものであるのなら、なぜおよそ「人間」と目されている人たちの中に「被害者」が生まれるというのだ? 「区別」が妥当であるというのなら、なぜその「差別」ではない「区別」によって、望むあり方を歪められる人間が存在する?
「多様性を認めない人たちをどう扱うべきだろう?」と倫理が、道徳が、社会が問いかけてくるとき、人はまさに自分が倫理の側にいると思って、椅子にでも腰掛けながら「ふむ」と考えるだろう。しかし問われているのはまさに彼自身の信条であり、彼は踏み絵を迫られているのだ。判断一つで、彼は容易に「悪人」に分類される。不道徳的な社会であればそうではないだろうが、きっとどこまでも倫理的・道徳的な社会ではそうである。結局のところ、道徳とはさまざまに「悪人」を定義する仕組みでしかないのだと、そう思っている。
だから規範的な倫理、絶対性をわずかでも希求する倫理は、日常的な人間、人間らしい人間にとっての害毒なのだ。理論ならまだしも、実践として、運動として立ち現れ、現実の隅々までを真理で満たそうとする道徳は、何よりも躊躇なく暴力的になるだろう。
多くの本が焼かれる。しかし本を焼くのは「悪人」ではなく、そこではまさに「悪人が」焼かれているのである。
それはきっと、私なのだろう。