原田のゴミタメ。

私が語ることは、すべて接頭に「私にとって」が与えられねばならない。我儘で、自分勝手で、醜く幼い私の誇大妄想。私的な論理の飛躍は決して万人に敷衍されてはならないが、万人が私の妄想を否定したとき、もはや私には生きる必要がないと思われる。せつに、そう思うのである。

こうなってしまったらもうどうにもならないこと。

 

「昨日、非常に恐ろしい映画を観たんだ。銃を乱射する人間が突然現れて、周りの人間は悲鳴を挙げながら逃げ惑う。幾人かは物陰に隠れて一時的に難を逃れるのだけど、逃げ遅れた人や隠れ損ねた人が、命乞いをしながら撃ち殺されていく様を目撃するんだ」

 

「それを観て、私は非常な、どうにもならない恐怖に震えながら思ったんだ。『こうなってしまったらどうにもならない』って。私がいま、この場面に常ならぬ恐怖を抱いているまさにそのことが、『こうなってしまったらどうにもならない』ことの禍々しい現実感を思い起こさせているんだ、って。私たちの日常とやらは、鬱陶しい取り決めや目障りな倫理・道徳であふれている。けれども、これらのどれもがこの『こうなってしまったらどうにもならない』ことへの恐怖から組み上げられている事柄で、『こうなってしまったらどうにもならない』ことが起こらないように、毎時毎秒、世界に私たちに、けなげにも自己暗示と祈りを捧げ続けているんだ。暴力は本当にどうしようもない。そこにあっては、弱い人間がけなげにも積み上げた理性だの知性だの感性だのと言ったおためごかしは木っ端みじんに吹っ飛んでしまう。それこそ、どれだけ熱烈に言葉を並べて懇願しても、最後には一発の銃撃で頭を撃ち抜かれる犠牲者のように」

 

「そいつは本当に恐ろしいことだ。そうならないように一所懸命に考えなくちゃ。一所懸命に祈らなくちゃと思ったのだけど、そこではたと思い至ってしまうんだ。銃撃を放つ側はどう思っているのだろう。広場で、学校で、交差点で、銃を乱射する人間は、つまり『こうなってしまったらどうにもならない』ことをまさに実行する人間は、一体何を思っているのだろう。私はそれこそ懸命に思い込もうとした。『そいつは気狂いの野蛮人だ』と確信しようとした。けれども、ダメなんだ。銃を用意し、直前まで気が付かれないように移動し、まさに引き金を引く直前まで、その社会が正常に機能する中に組み込まれている。あそこで『こうなってしまったらどうにもならない』ことを担っているのは、まさにそんな人間なんだ。ちょっとした駆け引き、それと思想。およそ人間が培ってきた事柄が無ければ、あの『こうなってしまったらどうにもならない』ことは起こりえないんだ。あれは大猿が大木を振り回しているのとは違うんだ。命乞いをしている人間が、まさに言葉の通じる相手に撃ち殺されるんだ。あれは野蛮ではない。あれは狂気ではない。あれは人間が汗水たらしてけなげにも積み上げてきた事柄の、一つの帰結なんだ。そう思ったとき、私はもうどうして良いか分らなくなってしまった。私たちはもうここまで来てしまった。いつ、どこで、誰が『こうなってしまったらどうにもならない』ことをぶっ放しても不思議じゃない。彼の動機も、彼の道具も、まさに社会にちりばめられている。SF小説なんて書かなくても、私たちはもう脅迫されている。誰が殺し、誰が生き残るかの場におかれてしまっている。冷静な取り決めなんて気休めに過ぎない。暫定的であることは、事態から目を背けていることに他ならない。ああ、私は馬鹿であればよかった。私は白痴であればよかった。何も認識せず、ずっと笑っていられる存在でいたかった。こうなってしまったら、もうどうにもならないんだ」

 

 

「おお、おお。わかったから、今すぐそのナイフをしまえよ」

 

 

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少なくとも、「日常」と呼ばれるものを営んでいる限り、いかに悲観主義者を装ったとしても、その本質はどうしようもない楽観主義である。

そしてそれは何ら悪いことではない。こうなってしまったらもうどうにもならない限りは。