原田のゴミタメ。

私が語ることは、すべて接頭に「私にとって」が与えられねばならない。我儘で、自分勝手で、醜く幼い私の誇大妄想。私的な論理の飛躍は決して万人に敷衍されてはならないが、万人が私の妄想を否定したとき、もはや私には生きる必要がないと思われる。せつに、そう思うのである。

『ソクラテスの弁明』を読んで

先週か、あるいは先々週か、試験勉強の合間に『ソクラテスの弁明』を読んだ。

世界の大思想シリーズに収録されているもので、長編『国家』と短編『クリトン』に挟まれる形で一冊のハードカバーに収まっているやつだ。

扉を開けてすぐ始まる大長編『国家』とは訳者が違い(田中美知太郎というらしい。有名な先生なのだそうだが、無学な私は知らなかった)、そして短編ということで、『国家』に一度挫折した私でも読み通すことができた。

 

 

以下に、読んでいて思ったあれこれを述べる。ただその前に、全く気休めの保険をかけるつもりで、これはあくまで「感想」であるということを強調しておきたい。つまり、全く正当な保証がなく、素人の愚考じみたものであり、見る人が見るなら不快で、あるいは憐れなほど退屈であり、全く読む価値を持たないものであるということ。そして、こう断ったうえで尚、「何を気取っているんだ」「全く読めていない。馬鹿馬鹿しい」「妄想だ。黙っていろ」と、罵倒され、あるいは徹底して糾弾され、またあるいは単に嘲笑されることを黙認せざるを得ない代物であることを、何度も何度も強調しておきたい。そもそも、くだらないものと分かっていながら(こう書く時点で分っていないのだが)尚書こうとする時点で、筆者の愚かさ、あるいは俗物さが容易に把握できるだろう。

 

 

ソクラテスの弁明』は、ソクラテスが、彼を訴えた人々に対し裁判にて弁明を行う場面から始まる。自身を訴えた者たちが「真理」に照らしていかに誤っているか、そして自身の行いが、よく吟味するならば、なんら訴えられるべきものでないということが、文字通り「弁明」として描かれる。そうして投票が行われ(有罪か無罪か)、有罪が決まり、それに対してまたソクラテスがコメントする。今度は量刑に対して、自分を死罪とすることが、いかに真理・神の宣託によって行われるソクラテス流の真理に反することか、あるいは、この神託者を失うことが、国家市民にとっていかに不利益なことかを、何ら保身から言っているのではないことを強調しながら、熱弁する。そうしてまた、投票が行われる(量刑)。死罪が決まり、ソクラテスは何ら不満を叫ぶこともなく、聴衆と、そして集まった弟子たちにいくつかの言葉を残す。末尾を引くならば、

 

しかし、もう終わりにしましょう、時刻ですからね。もう行かねばならないのです。  わたしはこれから死ぬために、諸君はこれから生きるために。しかしわれわれの行く手に待っているものは、どちらがよいのか、誰にもはっきりは分らないのです。神でなければ。

 

こうして『弁明』は幕を閉じる。

 

通読して考えたのは、真理というものが、時として、いかに人間感情から解離したものであるかということだ。一読しただけであり、ソクラテスの論理(と言っても、私は未だ論理学を諳んじないのだが)には、「なるほど」となるところもあれば、無学な、あるいは時代背景について無勉強な私には「?」となるところもあった。しかし、ソクラテス自身が神の名の下に展開する一連の真理とその吟味は、なるほど、正しいと言えば、何人も頷くしかないほどに「正しい」のだろう。その聞き手を納得させてしまう正しさが、何より、ソクラテスが過去の論駁の場で直ちに打ち殺されなかった理由とも思われる(もちろん、他にも様々な理由があるのだろうし、第一、ソクラテスが登場する物語はプラトンの創作である)。しかし神の名の下の真理の実践、つまり、「お前が一番の智者だ」と神託を受けたソクラテスによる一連のその吟味は、人々の恨みを買い、それは蓄積し、最後には、公衆の面前での論駁虚しく死罪に結実した。そしてそのことは、ソクラテス自身も分っているのである。彼は恨みを買っていることを自覚しながら、尚人々を論駁し続けた。つまり、なるほど彼の行いは正しく、そしてその死罪は不正義であるとしても、一連の流れは至極妥当なのだ。なぜなら、人間には、それ自体なんら咎めえない「感情」があるからである。

 

どうなのだろう。アウトラインだけを聞き知ったならば、おそらくほとんどの人は不当に処されたソクラテスに同情するのではないか。倫理の教科書レベルでしかものを知らない私もそうだった。しかし、実際に読むならば、少なくとも私は、そうした同情は吹き飛んでしまった。なんなら、一連の流れ自体がソクラテスの茶番のように思えてしまったのである。

 

―尤も、これは純学問的な所感を徹底できない私の凡俗性に依るのであり、そもそもの 読みに個人的な所感を持ち込んだ不届き者の戯言であるが。

 

ソクラテスの正しさはもちろん純学問的・倫理的に否定できないほどに「妥当」なものだろう。しかし論駁に伴う相手への無配慮は、そこに生じる怨恨も十分妥当であることを示してはいまいか。勿論、怨恨が妥当であることなどありえないし、あってはならないだろう。しかし、それは公共の、あるいは「正しさ」の次元におけることであって、所感のレベルにおいて、怨恨は否応なく生じ、それは否定することさえ馬鹿馬鹿しい。相手の弁舌が自らには論駁しえないほど正しいのだと、まさに本人が認識していてさえ、恨みの感情・悔しさや殺意といったものは正常に健全に生じうる。そしてこうした作用は、ソクラテス自身も把握していたのだ。そのうえで論駁を続けたのなら、こうした結末は何ら異常ではない。これはまさに、健全な(それは呪わしい健全だが)人間社会の進行ではないか。

 

なぜソクラテスがもはや偏執的に真理の吟味を続けたのかと言えば、『ソクラテスの弁明』を読む限りでは、それは信仰に依るものだろうとしか言えない。人々の反感を知りながら、尚問い続けることについて、ソクラテスは「私は神託に従って行っているのであり、実践しないことは神への不義にあたる」というようなことを言っている。しかしこれは、まさに人々も信仰するところの神の名の下に、公衆の面前で相手を「正当に」殴るということに他ならない。言い逃れができないほどに論破され、しかもそれを否定しえない神の下に行われたときの恨みがどれほどのものか、想像するだけで恐ろしい。それでもソクラテスがその場で殺されなかったのは、やはり彼の「正しさ」、というよりは、「反論しにくさ」のためだろうか。彼は真理をまさに敷衍したために、人間の感情を軽視しすぎたのではないか。

 

 

―個人的な、無定義な語を用いた愚かしい感想の見るに堪えない総括として、

 

ソクラテスが純粋に論理的であったなら。つまり、その徹底した吟味を、人々の在り方に向けなかったならば、こうした茶番は起こらなかったように思われる。学府のようなところがあり、そこの中でのみ、その比類なき徹底性を存分に発揮したなら、少なくとも彼は不当に殺されることはなかっただろう。しかし彼はあまりにも倫理的であった。「善く生きるため」の真理として、神の名の下の論駁をあまりにも広く行いすぎた。それは人々の所感に対する一種の冒涜であろう。過激化した宗教・思想が、救済・啓蒙の名の下に行うあまりにも野蛮な実践や人格改造は、個人の領域へも否応なく侵攻を仕掛ける。「そうでないこと」が正に劣った、罪であるかのように相手に錯覚させる。非倫理的であれと言うのではない。人々の個人的なつけあがりが、驕りが、何か害毒を生みうるならば、まさにそれが害毒と化した時点で初めて糾弾すべきなのだ。しかしソクラテスの倫理は、あるいは倫理や道徳というものがそうなのかもしれないが、人々がまさに「そうである」ことをも否定した。そしてソクラテスの場合は、その手法が徹底した論理であった。彼は論理と倫理、そしてそのあまりにも素直な実践が一体化した怪物的聖者であった。論理というものは、考える人間にとって、感情と同じくらいの否定しがたさを伴っている。そして所感・感情と論理は、少なくとも未熟な私がいま考えるところでは、そして少なくとも人間的な人間にあっては、決して一致しえない。その一致は神聖であり、尊くあり、名状しがたくあり、奇異であり、歪であり、そして私に言わせれば、非人間的である。

愚かな俗物、醜い私にあっては、聖者は生者でなく、死者なのだ。

 

 

おわり。

 

 

蛇足。

こうして周りを見渡した時、私は自分の居るところにもはや笑ってしまう。それは途方に暮れた笑いであり、自身に対する嗤いである。ここは大学なのだ。非倫理的かつ論理的なソクラテスが鮮烈にあるべき学府なのだ。ここにおいては、所感的な俗物はそのありようや志向を徹底して否定されるのだ。そしてそれはここが正に大学であるゆえに正しい。こうした場所の根絶は、もはやフィクションじみたディストピアであろうし。尤も、大学は一面的に純学問的な場ではないかもしれない。しかし、愚かにも迷い込んだ田舎者、いやさ凡族にとっては、自身の無能性を四六時中証明する場ということで、いささか苦しいところである。そして、そうした苦しさは、まさにここに居るということが自己責任の極みであるところからして、不当というなら不当である。

であるから、私のような俗物は、せいぜい賢明な人々の眼につかないように、暗がりで、まあ、欲望に任せて、形式的には真摯に、学問に邁進することにしよう。

いやしくも学生とは、学ばないということが罪になる身分の名称であるのだから。