原田のゴミタメ。

私が語ることは、すべて接頭に「私にとって」が与えられねばならない。我儘で、自分勝手で、醜く幼い私の誇大妄想。私的な論理の飛躍は決して万人に敷衍されてはならないが、万人が私の妄想を否定したとき、もはや私には生きる必要がないと思われる。せつに、そう思うのである。

ある凡庸な書簡(所感)

 

これは先程の議論に対するぼくの考えだ。

 

もっとも、きみがきみの価値観・前提に従ってものごとを判断する限り、おそらくは未熟者の屁理屈としか映らないと思う。だから、見るに堪えないのなら、悲しいことだが、以降無視していただいて構わない。

ただ、いまこうして返答、もといぼくの考えていることを整理しようとしているこの性格は、尊敬すべきひとたちから受け継いだ財産だと思ってる。だから一つ落ち着いて、こうして文章化しているという訳なんだ。また、そういえばいつだったか、ぼくの浅薄な意見表明について、きみはそれを一蹴して取りつく島もなかった。そのとききみは「馬鹿も馬鹿なりに沈思黙考したらどうだ」と嗤ったね。

そういう意味では、ぼくは教わった教訓をもとにして、いま、先程の対話を落ち着いて整理しようとしているのだ。

つまりこれは、一つの誠意なんだよ。きみには馬鹿げた、無益な、くだらない、意味のない、子供じみた駄々にしか映らないとしても、少なくとも今、ぼくは誠実に文章を練ってるのだ。

すくなくとも、そのつもりだ。

この行為が、「世間において」まるきり無意味であるなら、本当に不甲斐ないことだが、また叱ってくれたまえ。そうすれば、ぼくはいたく傷つき、また何ごとかを学ぶだろう。

 

 

さて、話の発端はぼくの対人関係についてだった。

きみは、(おそらく)「好きな人はいるのか」という趣旨のことを尋ねた。それに対して、ぼくは常々思うところがあったので、「好きな人」を「恋愛感情をもっている人」と解して、「恋愛至上主義は素晴らしい価値観だけれど、人の在り方は何もそれでだけではない」と返したんだ。

思えばこれは質問の答えになっていない。それについてはぼくが悪かった。

ごめんなさい。

ついで、ぼくは私見を述べようとした。しかし双方譲らず、また冒頭の言い方が決定的に誤解を招くものであったために、ただみっともない罵声が大きくなるばかりで、核心部に達する前にうやむやになってしまった。だから、まずここに、ぼくが言わんしたところを記したいと思う。

 

 

第一に、「恋愛しているかどうかを判断基準にするのは危険である」こと。

これはつまり「好きな人はいるのか」を「恋愛をしているのか/する気があるのか」と解してのことだ。もちろん「好きだ」と思う人がいるのなら、ぼくはそれなりの努力をして、結果はどうあれ、恋愛に邁進するだろう。ただ、現在のぼくには、「好きだ」と思えるような人がいないんだ。おそらくきみなら、そこから「それは積極的に機会を得ようとしないからだ」とつづけて、それはぼくの怠惰によるものだと諭すだろう。

もちろん、勤勉か怠惰かでいえば、ぼくは怠惰なほうだ。これについて異論はみとめない。しかし、「『好きな人を作るための機会』を積極的に求めないために、好きな人がいない」というのは、いけないことなのだろうか。責められるべき過ちなのだろうか。さらに言うなら、よしんばそうした努力を怠って、かつ「俺には恋人がいない」と自嘲するとしても、だ。それはいけないことか?確かに見ていて不快ではあろうが、それは正当なのか…。

現在ぼくは、「勉強したいと思ったことを勉強する」ということに喜びを見出してるんだ。そこにおいて、積極的に「好きな人を作るための行為」に精を出す必要が感じられないんだ。しかし、きみの言い方によるなら「好きな人がいないこと」はすぐさま怠惰に結びつくのだ。それは、野球に一生懸命になっている人に「サッカーをしていない」と注意するようなものだ。「好きな人がいない/積極的に作ろうとしていない」とういう現状に何か過失を見出すのは、恋愛ではない別のことに打ち込んでいる人の頑張りを馬鹿にすることと同じだ。同じように、「好きな人がいないような人間/人生は惨めでつまらないものだ」という考えも、それ以外のことに楽しみと充実を見出している人を馬鹿にしている。

またきみなら、「なにか機会があれば、そういった人は自然にできる」と考えるのかもしれない。しかし、その考えは危険であると思うよ。なぜなら、その考えは、そうでない人(機会に恵まれていて、かつ好意を持つ相手ができない人)を「間違っている」と言っていることと同じだからだ。「間違っている」とまではいかなくても、「自然でない」と言っていることにはなるだろう。当然ながら、これは個人への人格否定だ。そう考えるだけならまだしも、それをもとに相手に何かを諭すことはほとんど暴力だ。

「相手が間違っている」と口に出して伝えることは、それが正しかろうと、相手を傷つける暴力性を伴っていることを、ぼくも含めて、自覚するべきなんだ。

もちろん、「それをしてはいけない」と言っているのではないよ。暴力性を伴うとしても、間違っている状態を正そうとすることはよいことだ。素晴らしいことだ。しかし、例えば、ただ繰り返し繰り返し間違いを指摘し続ければ、相手の心身は疲弊し、また深く傷つくだろうことは想像がつくはずだ。だからこそ然るべき配慮、自動車の運転でいう「みんなへの思いやり」が必要になるんだ。こればかりは、たとえ「世間はそういうものだ」と言われても引き下がらないぞ。そうだというなら、その「世間」は徹底的に間違っている。それは正すべきものであり、個人が俯いて黙認すべきものではない…。いや、たとえ現実においてはそうせざるをえないものだとしても、内心で「それは間違っている」と考えること、個人間でそうした意見を表明しあうことなどは、決して馬鹿にされてよいものではないんだ。

 

 

さて次に、「アドバイスとしての『恋愛をしないとだめだ』は、大抵の場合、結果でなく、過程が重要である」こと。

ぼくがまず言いたかったのはこれなんだ。誤解を与える言い方のために、冒頭で散り散りになってしまったけれど、ぼくがあそこで本当に述べようとしたことは、次のことなんだ。

若年者へのアドバイスとして、「恋をせよ」「好きな人ができないのはつまらないことだ」というような、恋愛を推奨するようなものがある。あるだろう。おい。

で、なぜこのようなアドバイスが繰り返されるのかと考えたとき、結局のところ、そこで重要なのは「恋人ができる」という結果でなく、「恋人ができるように努力すること」なのではないか、というふうにぼくは考えるのだ。

結果として「恋人ができる」ためには、一体何が必要だろうか。

答えは、「わからない」だ。

相手によって、清潔な容姿——もちろんこれはたんなる一例であり、そうでない場合もある。先程の対話において、きみはひたすらに「そうでない!」「そうでない!」と繰り返したが、もちろんその通りなんだ。これは一例に過ぎない。だけれども、存在はするものなのだ——、誠実な態度、面白い趣味、ユーモアあふれる性格(これはぼくに欠けているものだ)、ひとあたりの良さ・やさしさなど、さまざまであり、総合的で、これらはけっして一つに定まらない。

だからこそ、人は暗中模索をするしかないのだ。そして、そうやって暗中模索するうちに、つまり「人にまともに相手にしてもらえるような努力」をするうちに、おそらくは、世間一般に「しっかりしている」と評される人間が生まれるのだ。生まれるのだろう。

つまり、「恋愛をしないとだめだ」「恋人をつくれ」といったアドバイスは、結果はともかく、最終的には「しっかりした人間」を生み出すわけだよ。ならば、こうしたアドバイスが再三繰り返されるのは、そうした「しっかりした人間」を生むという、一種の社会的な実益、あるいは「しっかりした人間になってほしい」という願いがあってのことだと思うのだ。

もちろん、それで「好きな人」もできるなら万々歳だろう。ただ、明らかなように、「好きな人」ができなくともそこに費やされた努力は無駄じゃあない。(あくまで一例としてだよ)「清潔な容姿」を得ようとさまざまに努力をした人は周りに好印象を与えるだろうし、「わかりやすい話し方」を得ようと努力した人はその力を他のことにも使えるだろう。

こういったことから、重要なのは結果でなく、その過程なのではないか、と考えたわけだ。

もちろん、だからといって「好きな人がいないこと/つくろうとしないこと」がなにか間違ったことになるわけじゃない。今述べたような努力は、別の目的(例えば、あの先生に認められたいとか。あるいはもっと個人的に、人間として立派になりたいとか)の下でもじゅうぶん必要なことだし、こうした目に見える目標(好きな人を作る/人に認められるなど)を掲げていなくても、人は何かを目指して、そのための努力をしているものだ。

それなのに、そのうちの一つ、例えば「好きな人を筆頭に、対人関係を充実させる」などを絶対的なものとして、あくまでそのための努力をしていないだけで、別のことには一生懸命になっている人間を、「怠惰だ」「無駄だ」「甘い」と諭すのは、ただの人格否定だよ。

百歩譲ってそれが正しい指摘だとしても、そのアドバイスは何かしら相手を否定する成分を含むものだということ、相手を少なからず傷つけるものだということを忘れるべきではないんだ。

 

 

最後に、結びとともに、いくつかの弁明を述べたいと思う。

まず、「(何も知らない)相手に対しては、好きか嫌いかの二つの感情しかない」というきみの前提について。

少なくともそれはきみの中では絶対的に正しいことなのだろうし、場合によっては真理でもありうることで、それゆえにきみ自身の価値観として尊重すべきものだ。

しかし、残念ながら世の中にはそう思っていない人が一定数いること、そしてそういった人たちの価値観も同じように尊重されるべきものであることを少しでも理解してほしいんだ。とくに、そういった人たち(そこにはぼくも含まれる…。)の意見や価値観を、「世間とはそういうものだ」という、反論を許さない現実を盾にして異端視し、矯正しようとすることは、おそらく卑怯なことだ。いや、卑怯だ。ぼくはそう思うのだ。

また、ぼくが「たとえ相手が人格的に嫌いであっても、そのひとが優れた知見をもっているなら、ぼくはその人を尊敬し、教えを乞う」と言ったとき、きみは「それは結局相手の知識を『好いている』ということだ」と返答した。たしかにこれは、「好いている」ことになるだろう。しかしそこでぼくが好いているのは「相手の学識」であって、「相手自身」ではない。たとえるなら、人の持っている金銭に執着するようなものだ。別に悪いことじゃないがね。さて、この状態を「人を好いている」といえるか…。

 

 

きみが「間違っている」「こうすべきだ」と思い、それを指摘するのは、人としてとして当然の行いであり、いまだ至らぬ愚かなるぼくから見るなら、それは非常にありがたいことになる。しかし、そのありがたい指摘であっても、それが過ちを突くものである以上、相手に痛みを与えるものであること、そしてその痛みは誰にとっても当たり前のことであり、我慢と沈黙を強制できるものでは決してないことを、我々は、理解することに努めるべきだ。

 

 

この拙い駄文を最後まで読んでくれることを祈って。

また、読んでくれたならば、感謝と尊敬を表して。

 

 

芦谷次郎

 

 

memomemo

この書簡には、おそらくなにか道徳的な観点—例えばそれは「暴力性」を、まさに告発するような言い方や、また「人格否定」を咎める点に見られる—がある。私はそれを必ずしも絶対的なものとは思わないのだけれど、しかし、こういった観点は人間の所感の中において何か一定の心地良さ、(誤解を恐れずに言えば)納得感を与えるようにも思われる。はて、これはいったいなにか。