妄言醜
妄言的な思い付きの置き場。
思いついたら書き足してゆきます。
作品と作者は切り離して考えねばならない。
およそ創作物は100%の嘘八百であるということを、常に自覚しなければならない。
そうしないと、心がもたない。
25/07/2020
いかに不健全なものであっても、扇情的で、倫理的におぞましいものであっても、選択の余地があるならば、被った不利益の責任は、すべて読み手に帰せられる。その点で、いかなる不利益であってもその責任を創作物に帰することは許されない。
25/07/2020
今ここに生まれた純粋な人間は、いかなる責任とも無縁である。性別的なものも、歴史的なものも、身分的なものでさえ、「その人がその人であること」にはいかなる責任も帰することができない。一切の責任は、ただその人を取り巻く環境に帰せられる。
そして人間的な環境が何からなるかと言えば、それは他者である。
25/07/2020
社会は個人に幸福と苦しみの両方を与える。
そして、苦しみというものは、たった一滴で幸福の総量を凌駕する。
故に、個人には社会に感謝する動機がない。
どころか、憎悪し呪詛する動機しかない。
01/08/2020
著名な天才とは何か。
それは、支持者の、信者の多い天才である。
奇跡のようなエピソード、わかりやすく何重にも咀嚼された思想、業績。
そういったものが彼を伝説に押し上げる。
支持者のいない天才というのは、友人のいる凡人よりも、社会的に劣るのである。
尤も、「社会的に」評価されることほど、馬鹿げた侮辱もないが。
08/06/2020
孤独者が創造した概念が、衆愚に膾炙すること以上の冒涜はないのではないか。
例えばキェルケゴールの「絶望=死に至る病」について、これが大勢に読まれ、皆が十把一絡げに「私は絶望者だ!」となることは、作品や、孤独な信仰者に対する侮辱に過ぎないのではないか。
24/08/2020
ショーペンハウアーの有名な掲句に「人生は短いが、真理は永く生き、遠くまで届く。されば我々は真理を語ろう」というものがある。これは確か「意志と表象としての世界」初版まえがきの末尾にある一文である。すなわちこの文句は、主著が40年の黙殺に遭う前に吐かれたものだ。だとすればこれは自身の学説を黙殺された孤独者が負け惜しみに吐いた台詞ではない(第二版まえがきには、同時代の哲学の英雄たちに対するすさまじい呪詛がみられる)。思うに、人生よりも永劫の真理を謳うこの文句は、素晴らしく孤独なものではないだろうか。万人が人生を称揚する。ならば、この文句は、健全な人生に見切りをつけた素晴らしき孤独者の決別の表明ではないか。
少なくとも、しばらくはそう盲信して生きることにしてみよう。
尤も、ショーペンハウアーが孤独者かどうかは、知ったっこっちゃない。
27/09/2020
あらゆる理念は幻想だが、それを図々しくも現実だと言い張るとき、その理念がもたらす、あるいは現にもたらしている効用を挙げるのは全く持って無意味である。それが許されるなら、私の妄想を含めたありとあらゆる幻想、それに伴うあの一過的な高揚感はまごうことなき現実であるがゆえに、我々の幻想は現実であることになる。
故に、我々の現実の安定した運営に寄与するとはいえ、秩序すら幻想に他ならない。
3/10/2020
哲学をやろうなんて馬鹿げたことを考える愚か者にはこう諭すべきである。
「この世にはもっと楽しいことがたくさんある。君が学生なら、そうだな、ギターでも始めてみるべきだし、詩を作るなり、小説を書くなり、あるいは友達付き合いに精を出してもいい。学生なんだから、恋もしなくちゃダメだ。だからくれぐれも、哲学をやろうなんて思っちゃいけない。哲学は君を不幸にし、友達を無くすもとだよ。何?しかし哲学をやるあの人はとても豊かで楽しそうだって?騙されちゃいけない。あいつはおよそ哲学なんてやっていないのさ」
4/10/2020
書けないんだよ。
17/10/2020
現実は幻想をいともたやすく打ち砕くが,その現実を形づくる我々の背後に存在する基礎は,途方もない幻想に他ならないと,私は想う.
(2019後期,武田雅哉教授による講義「中国奇譚漫遊」小レポートより抜粋)
21/10/2020
私の縋る全てが嘘で、幻で。
そう確信したとき、一筋の涙が頬をつたうと共に、無限大への飛翔をすら可能にするめくるめく夢想が、私をしてその口角を吊り上げさしたのである。
それはもはや現実。胸にエナジーを。
16/06/2021
私は、道徳は最終的に人間を殺すと思う。ここでいう人間は、「いま」私たちの周りで生きているような人間である。道徳は、最終的には、いまの人間からみてほとんどエイリアンでしかない人間を生み出すだろう。そして彼らは、他ならない私たちを「極悪」として反省の歴史に連ねるだろう。それはいい。しかし、少なくとも私個人から見れば、道徳の遵守によって生み出されたエイリアン、未来の真に道徳的な人間たちは、あまりにも人間的でなく、哀れに見えるのである。道徳の要求する諸々の理念が、人間の実際とあまりにもかけ離れているがゆえに。
03/09/2021
私は特段動物に対する嗜虐性をもっているわけではない。むしろ目の届く範囲の動物に、意図的な苦痛を与えることは避けようと考えている人間である。往生した毛虫を草むらに戻したり、カラスのクルミを割ってやらんとする人間である。もちろん私はそれが善行だと思ってやっているわけではなく、それが自分を満足させる行為だからしているだけなのだが。
しかしながら、私は動物解放論が大嫌いである。言ってしまえば、動物の権利なぞくそっくらえの人間である。むろん、それは動物の権利論が間違っているからではない。そもそも、動物の権利論は哲学の議論であり、そこで組まれた精緻な論拠はおいそれと反論できるようなものではない。たとえばシンガー「動物の解放」で述べられているような功利主義に基づいた動物権利論の説明には、いささかの疑義はあるとはいえ、むしろうならされたほどである。
ではなぜ私は動物解放論が嫌いなのか。
それは、動物解放論にかぎった話でなく、それらの主張が、私の「やりたいこと」を否定するからである。私は、叶うことなら、人間をはじめとした生物の、認知の仕組みを研究したいと考えている。しかしながら、動物解放論は動物実験に暗雲を投げかける。私の夢に限った話でない。まったく日常においても、私は肉が好きであり、また最近では競馬に盛り上がってほしく、クジラ肉なども食べてみたい。しかし、動物解放論はそれらを「悪」と名指しして「正しさ」の下に否定する。彼らにかかれば、ある文化にうまれ、そこで自然に「こうしたい」という志向を抱いた人間は、それだけで容易に「種差別者」になるし、「道徳的極悪人」と定義される。そしてそれはまさに哲学的・道徳的に「正しい」ことなのである。私が道徳嫌いなのはこの点なのかもしれない。少なくとも意識的には何のイデオロギーに依ることなく、私は道徳の、「何かを悪と定め、それを徹底して攻撃する」という側面に生理的に吐き気を覚える。それは卑怯だとすら思う。しかしそう思うことは、全く定義からして、不道徳なのだ。道徳に「卑怯だ」と感じることは、道徳的に「病気」なのであり、それ自体が「卑怯」なのである。なぜなら、道徳に反するものは、「悪」なのであるから。
肉を愉しめるなら、私は「悪」でいい。動物の関わる産業や、そこにおける物語的な逸話に感動の涙を流せるなら、私は「悪」でいい。「道徳」の範囲を広げるならば、少なくとも現状合法的に流通している(なかにはほとんど芸術的といってもよい出来のものすらある)ポルノ作品で肉体的快楽を得られるなら、私は「悪」でいい……。
私のような「悪人」は、いったいいつまで「人間」と定義されていられるだろうか。
それはまったく、「道徳」のみぞ知るのである。
03/09/2021
学的な見地にあって、批判はむしろあるべきものだ。しかしながら、学問の社会的側面を考慮にいれたとき、その方法や、あるいは立ち位置はよく考えられねばならない。これは従来、科学に対して倫理が指摘してきたことであるが、他ならない倫理自体が、学的でありながら何よりも広範な社会的側面を帯びたものである点で、自覚的でなければならないものだ。
たとえば、まさに「正しさ」の担い手であるとうぬぼれて、世の全てに「倫理的批判」を加えること、それも単に批判するのでなく、まさにその社会的側面、「運動」を伴って高圧的に否定にかかることは、倫理的事象に対する不信や反感という形で、まさに現実において現れてくるだろう(まさに科学でそうであったように)。そのとき、自身のありように反省するか、それとも自身にたいする反発自体をただひたすらに「倫理的に」排するかは、倫理次第だ。
03/09/2021
「おかあさん、じごくってどんなとこ」
「地獄はね、生きていた時にいっぱいいっぱい笑っていた人がね、堕ちるところなのよ。そこではね、顔の筋肉や管に硬直剤が流し込まれて、ずっと笑顔でいなければならないの」
「でも、せんせいは、じごくはくるしいところっていってたよ。ずっとわらっていられるんでしょう?それだとみんなたのしそうだよ」
「そうね。だからエンマさまは、子分の鬼たちに命じて、わらっている人の顔を、針の山や燃える鉄の板に何度も何度も打ち付けさせるの。とても痛くて苦しいのに、ずっと眼を見開いて、えくぼをつくって、幸せそうに笑っていなければならないのよ」
「こわーい。あたし、もうわらわない」
「いいえ、さっちゃんはわらってていいのよ。地獄に行くのはね、笑いながら幸せだった人たちだもの。さっちゃんは、わらってて楽しい?」
「ううん。かなしい。だっておかあさんが死んじゃうんだもの」
「さっちゃんはとてもやさしいのね」
とてもやさしい。
ぬくもり。
みんなでわらおう。
20/
「楽園では『美しき者ども』は迫害の上、群衆の前で殺されるのですよ」
「おや、それは良い」
29/6/20
非道徳宣言
人は叫ぶ!
人は嘯く!
道徳を、
健全を、
倫理を、
義務を、
人間としての最低条件を!
愚者を嘲り、
他者を欺き、
醜人を貶すまさにその口で!
醜き愚者を遊び半分で否定し、
人格を剥奪し、
自らを不快にする人間は、
「間違った奴」として、
集団で顔をしかめ、
迫害する対象にしてよいと見做すのだ!
彼らの唱える道徳に価値はあるか?
彼らの掲げる健全に価値はあるか?
彼らの信じる倫理に価値はあるか?
断じて無い!
「人として」だ?
どの口が言う?
全て聞く価値の無い戯言だ!
他者に敷衍される価値観を語るに値するのは、絶対的な聖人を除いて他にない。
そしてあらゆる意味での聖人など現世にはありえない。
聖人とは、死したものなのだから。
ゆえに、道徳を語るに値する人間は存在しない。
道徳を騙る教師とは、他者への許すべからざる越権の咎で地獄に落ちることを覚悟した者どもである。唯一、その意味でのみ、尊敬に値する。
道徳は、唯一、個人の徹底した思考の上に妥協される信仰である。
それは徹底して個人的なものであり、他者の領域にわずかでも持ち込めばたちまち腐り果て、それは重大な罪過であり、害毒である。
さも当然のように、
弁えていないことが恥ずかしいことのように、
常識であるかのように価値観を騙るものは、愚鈍な白痴である。
彼は己の価値観を他人に強いたのであり、その時点で罪人だ。殺してよい。
他者に関する言及は、あらゆる意味で許されるものでなく、名付け得るならば、せいぜい呪詛である。
それは一切の妥当性と正当性を欠き、語るものは呪われる。
いついかなる時も道徳的でない人間の語る道徳に価値はない。
それはエゴイストがエゴを咎めるようなもので、
罪人が法の遵守について語るようなものである。
私も非道徳的な人間だ。
何故なら私はエゴイストであり、差別主義者であり、醜人であるのだから。
エゴイズムを人間の尊重すべき美徳と考え、差別が原理的に自然であると憤り、徹底的に醜いのだから。
それは、既存の道徳にあって許されないことだ。
私は、既存の道徳にあって大罪人であり、道徳が迫害すべき存在だ。
そして、その道徳を語るに値するのは道徳的な「聖人」のみである故に、私はその道徳を死んでも標榜すまい。
私に語り得るのはただ個人的な信仰のみであり、呪詛のみである。
さあ、
道徳を、
健全を、
倫理を、
義務を語る人間を見てみたまえ。
彼はきっと完全なる聖人のはずだ。
故に他者越権を是とされ、
非道徳者の処刑を「正義」の名の下に堂々と行えるのだから。
彼は聖人であるに違いなく、そうでなければならない。
そうでないなら、殺してしまって構わないし、殺すべきだ。
24/09/2020
人に心配をかけるのが、だーいすきだ。
29/01/2020
断片
博士は腕をいっぱいに広げて踊った。
それは美しくはなく、技巧に富んだものでもなかった。
しかし博士は楽しそうだった。
ゆっくりと回ったり、時には激しくタップを踏んだり。
そこには伸びをした時のような充実感があふれていた。
博士は腕を振り上げた。
笑顔で語り合う若い集団が木っ端微塵に吹き飛んだ。
博士は腕を振り下ろした。
倫理や道徳、健全を説く連中の頭が叩き割られ、血しぶきがあたりを彩った。
博士は不格好に回転した。
軽妙なノリの若者たちが意識のあるまま砂塵となって砕け、風に舞った。
博士は両手を掲げ、首を奇妙にもたげた。
凝り固まった権威や欺瞞がアバラを暴かれ、衆愚に喰い尽くされた。
博士は天を見上げ、指先をめいいっぱいに広げた。
白痴や不具といった者が掻き消え、純粋のみが残った。
全てが終わった後、博士は笑顔で泣いていた。
12/11/2019
一種の偏見あるいは差別的とも取られかねない恣意的な私見を述べさしていただけるならば。
私は、誰かに頼ることが自然に思われる女の方が、馬鹿馬鹿しい見栄のためにそれらが憚られる男よりはるかに幸せであると思う。
26/11/2019
ある時私は「白痴」になりたいと思った。
認識能力が著しく劣る人間ならば、自分を客観視することなく主観的に楽しむことが可能だと考えたからである。
自分の醜さを認識できないという幸福を受けることが可能だと考えたからである。
しかしこの言説を公表しようものなら、「不謹慎」ということになるのだろうか。
「白痴は差別用語だ」
「障害者を馬鹿にしている」
「少なくとも健常であるくせに、それを嘆くのはそうでない人に失礼である」
とかとか。
うるせえ。
これは常々言わないようにしている文言ではあるが、
「あんたらに何が分かるんだ」と、
障害者の存在によって健常者の悩みが不謹慎なものとされるのは害悪以外の何者でもない。
障害者、あるいはその取り巻きは、障害者の権利を主張すると同時に病んだ健常者の悲痛な叫びを弾圧しているのだ。
そのような腐敗がまかり通るので有れば、いっそあらゆる障害者は社会から排除するほかないではないか。
健常者はその存在からして障害者を苦しめるものであろう。差別、コンプレック云々。
ならば、障害者もまた、その存在自体が健常者の思考に与える責を負うべきだ。
自分たちが健常者に与える精神的負担に一切の蓋をした上での主張など、許されてよいわけがない。
26/11/2019
世の中という存在がある。
存在と言ったら存在するものに失礼にあたり
かと言って悪かと言ったら悪に失礼である。
時たま美的要素を孕む悪と異なり、世の中というのはいかなる場合も下賤で薄汚く必ず万人を不快にさせる。不潔や不快、不純や無能という概念は、世の中の本質を実に正確に表すために存在するのであり、天地天命に誓って人を貶すために存在するのではない。
生物が生きる上でやむなく生成される老廃物であり一銭の価値もない。
害悪という概念には申し訳ないが、あまりにも価値がないために逆に形容しがたい屑である世の中(世界中、いや宇宙中の屑には、この場を借りて世の中の形容に使用したことを謝罪する)を無理に一言で表すなら、害悪以外あり得ない。いや、害悪が何か人格を持つとしたら、彼らからも軽蔑されるだろう。
世の中などという汚濁を放任する輩も同罪である(いうまでもなく罪という概念にも大変申し訳ないと思う)
世の中は、罵られ、貶されることが唯一の存在理由である
世の中と言われた人は怒り狂う資格がある。
彼はどのような行為で報復しても未来永劫埋め合わせることの出来ない程度で貶されたのである。
世の中という概念(概念には重ねて謝罪する)が徹底的に嬲られ、貶された上で惨殺されぬ限り、日常は戻らない。
前期のメモから抜粋。
世の中=社会と解釈。
10/12/2019
なぜ私を苦しめ、不幸にする社会に尽くさねばならないのか。
こんな地獄で生かされるよりは死んだ方がマシだ。
私の話を聞いてくれない輩の話を聞く道理はない。
私を不幸にする社会を慈しむ道理はない。
私は社会から仇しか受けたことがない。
「社会に生かされている」のは、仇で苦しむ私を眺めて嘲笑するためだ。
断じて慈悲ではない。
殺す。
害悪そのものである社会は、徹底的に破壊せねばならぬ。
29/01/2020