原田のゴミタメ。

私が語ることは、すべて接頭に「私にとって」が与えられねばならない。我儘で、自分勝手で、醜く幼い私の誇大妄想。私的な論理の飛躍は決して万人に敷衍されてはならないが、万人が私の妄想を否定したとき、もはや私には生きる必要がないと思われる。せつに、そう思うのである。

ある恐れ

 

 何か人種差別的な考えや主張をしている人々に対して、毅然と「レイシスト!」と糾弾する人たち、そして最近は、人種差別的な人々の言説や振る舞いを、揶揄や皮肉、嘲笑を交えて「レイシスト」と指摘しているような人たち。

 

 もちろん、彼ら彼女らが「レイシスト」という指弾の下に相対しているのは少なくとも何らかの意味では確実な人種差別主義者であるのだが、しかしその糾弾の有り様、先進的(?)世界的嘲笑の有り様、すなわち、健全から異端への毅然とした嘲笑の有り様を見ていると、不思議と、歴史的教科書的な「差別主義」の営みそのものを見ている気分にさせられる。

 

 これは私がある種の相対主義者であり、少なくとも消極的差別主義者であるが故にそう見えてしまうのかもしれないが、たとえそれが許されざる(つまり端的な加害としての)人種差別主義の言説だとして、そうした言説に対し、あるいは「そのように見える」言説に対して、どんな時にも厳しく毅然と「レイシスト!」と糾弾を実行する様が、時として非常に暴力的に見えて仕方がないことがある。

 

 これは私の頭が悪く、また人権的啓蒙が足りていないために生じる迷妄だと思うのだが、そのような反差別主義的運動は本当に「間違いのないもの」なのだろうか。目の前にある健全は信用に足るものなのだろうか。常に間違うことのない正しさというのがあり得ないということは、おそらく多くの人が同意するところだろう。しかしならばこの反差別主義的言説の営みでなされている「糾弾」は、万が一間違いを含むものだとして、取り返しがつくようなものなのだろうか。倫理的に愚かな相対主義者であるところの私には、そこに誤りがあるとして、それが残虐な「差別主義」の再現、再来であるように思えて仕方がないのである。

 

 私は差別主義そのものを絶対悪であるとは見做していない。愚かな私は、区別とは全て一時的に正当化された差別に他ならないと考えるが故に、少なくとも現実において差別主義と手を切ることは不可能だと妄想している。故に私が差別主義を「恐れる」のは、それが端的な(私を向くかもしれない)加害であり、暴力であるためだ。そして私は、全く同じ恐怖を、反差別主義運動に覚えてしまうのである。