原田のゴミタメ。

私が語ることは、すべて接頭に「私にとって」が与えられねばならない。我儘で、自分勝手で、醜く幼い私の誇大妄想。私的な論理の飛躍は決して万人に敷衍されてはならないが、万人が私の妄想を否定したとき、もはや私には生きる必要がないと思われる。せつに、そう思うのである。

さわやか道祖神

さわやか道祖神

 

 ありきたりな語りだしで非常に申し訳なく思うのだが、とはいえありきたりである以上それは多々あるケースということだし、深層心理の仰々しい学説を持ち出すまでもなく、それは平凡極まりない、いわゆる「日常」の最も妥当な描写なのかもしれない。しかしなかなかどうして日常を日常らしく書くというのは難しいものだし、そもそも書くに値しないまでも書き留めることと相性が悪いからこその日常なのかもしれない。と、日記をつける習慣のない怠惰なる私は徒然なるままに思うのだが、これだけつらつらと言い訳めいたというかほぼ言い訳の前口上を食らわせれば少しはアイデンティティある見栄えになったのではないかと思う一方で、事実これこそ皆がよりうまくしたためていることではないかと思い至り、若干どころではない自己嫌悪を覚える今日この頃である。

 

 ともかく。

 

 数年ぶりに再会した大学の友人とともに、私はカフェ(だと思う。私はコーヒーと軽食が出るこじんまりとした店舗を「カフェ」あるいは「喫茶店」と形容するが、そんな名称はいわゆる若さを謳歌するオシャレで美しく一般常識があり人となりもよくコミュニケーション能に長けた、夜半に幸せそうな歓声を上げて多くの友人や恋人を侍らせて街を練り歩くような人種の特権であるようにも思う。思うのだが、そんな特権など実際にはあろうはずもなく、むしろ私のような汚泥に生きる屑が率先して連呼することでキラキラしたイメージを冒涜しているような心地よさも感じる。まあどうでもよい。先に進もう。「私はカフェの」→)の奥まったところに陣取った。
 久しぶりに会った友人は、以前と全く変わっていなかった。
 ぼさぼさの髪に無精髭、ところ構わずに脂染みた浴衣を纏い、それでいて一切の「異臭」は放たず、ふらふらと揺れ歩く痩せぎすのシルエットは、「小綺麗な貧乏神」といった趣だ。
 例のごとく彼は財布を所持していないので、私の奢りである。
ベトナム風コーヒーというもの、あれが結構甘かったんで、非常に好きなのだ。それがいい」と宣うので、それにした。彼は私のお気に入りなので、苦にはならない。当然ながら厳密には、「彼の向かいに座っている私の客観像」がお気に入りなのだが。
 私は会話において、無から話題を生成する術を知らないので、というか、そんなものの存在すら疑っているので、当然ながら彼の与太話を聞くに徹する。これが我々のテンプレートである。
 彼は語りだした。

 

 あれはいつの夏だったかな、ぼくはめずらしく旅に出たんだ。東北地方の山奥、鬱蒼とした緑を拝みたくなってね。そいで、スマート・フォンの画面とにらめっこしながら買った18きっぷを使ってだね、汽車に揺られ、バスに揺られ、十面沢というところに至ったんだな。地名の由来が面白かったんで、名前はよく覚えている。肝心の由来は忘れてしまったんだがね。「『鶴の恩返し』に似た話だ」と思ったのは覚えているんだが。
 宿をとり、一服したのち、どれと散歩に出た。胸のすくような青空に蝉がひたすらやかましい。当地の名峰の麓だけあって、山から風が吹き下ろしてくるらしく、なんというか、ちょうどいいんだな。
 めぼしいところもないので、小川沿いの農道沿いの木製電柱に沿って歩くことにした。次第に山が迫ってくるのだが、小学校と商店を見かけて、このご時世にこの山奥だ、小学校のほうは流石に閉校しているらしいのだが、意外に商店のほうは健在でね、こんなちっぽけな個人商店が一帯の生活の要というわけはさすがになかろう、住民の憩いの場というか、まあ惰性でやっているのかもしれぬと独り得心しながら、そのまま山に分け入ったのだ。
 針葉樹―まあ普通に杉なのだろう―が文字通り林立する細々とした参道は、意外に蝉がおとなしくて、小鳥などのさえずりを聴きながら、木漏れ日をちらちらと浴びながら、一種清々しい感じで、ぼくは登るわけだ。
 粗雑に、しかしがっちりと積まれた長い長い石段を登って、こぢんまりとした社の前にたどり着いたのだが、懐(これは文字通りの懐だ。ぼくは財布を持たない)を探ると10円しかない。「遠縁」を避けるべきか、「賽銭」に固執すべきか。しばし逡巡して、そもそも高々10円に思い悩むのもばかばかしいと思い賽銭箱に放った。ぼくはそのうち10円に泣くかもしれないね。
 土着の神に挨拶も済ませたことだし、さてどうするかと境内を見回すと、登ってきた石段、つまりは帰るに際して下らねばならないところだが、そこに一人の―おそらく「一人」の―女がいた。
 おいおい、露骨に嫌そうな顔をしてくれるな。安心しろ、ぼくは未だ恋すら知らぬ尻の青い童貞だよ。当然、ラヴ・ロマンスなんてものは無かった。もっともラヴなんてのがどんなものかは―失礼だが―君もぼくも知らないからね、ひょっとしたらああいうのを世間様はラヴ、あるいはロマンスと形容するのかな、しかしどうだろう、一般にラヴが語られる時につきものの、そんな雰囲気はなかったように思う。思うというか、その概念自体を厳として殺してしまったような、そんな感じが、まさにそれを特徴とする感じで、そこにはあったね。
 だってぼくは、「彼女」と相対したとき、およそあらゆる感情―劣情や、あるいは精神的感動、安息、動揺、つまりは驚き、意外性、形容しがたい靄のような概念―をこれと言って全く、持つことがなかったから。
 今ぼくは「彼女」といったが―そしてさっき「女」と形容したが―むしろそのこと自体に違和感を覚える。いや、だからと言って「彼女」が実は男であったとかそういうのじゃなくて、便宜上「彼女」と呼ぶほかはないだけであって―「あれ」「それ」と呼ぶのが実のところ一番しっくりくるのだが、しかし「彼女」にはきちんと人格はあったようだから―おそらくぼくは、「彼」と形容したとしても、同様の違和感を持つのだろうね。
 はは、どうもだめだなあ。
 今になって見ると、やっぱりうまく形容できない。
 まあいいや、ともかくそこには「彼女」がいた。
 何故ぼくが「彼女」を前にして硬直してしまったのか。「彼女」の下駄の鼻緒が切れていたわけでもなく、変に仁王立ちして通せんぼうしていたわけでもなく―現にぼくは、物理的には、そのまま無視して山を下りることもできたのだよ―変に、いやむしろ至極自然に相対して立ち尽くしたのか。
 「狐、あるいは狸、貉、その他それっぽい魑魅魍魎の類、もしくは夏の暑さにでも化かされたのかしら」と、普通の人、たぶんいつものぼくでさえ、そう思うべきなのだろう。しかし、そうは思わなかった。思えなかった。せいぜい「緑を拝みに来たのだが、なんだか違うことになった」、と、思うのが関の山だった。「なんだか違う」のに、それにつきものの閉塞感すらなかった。不安感もなかった。安息感もなかったが。
 「おにいさん、旅のひと」
 色のない声だった。
 「旅のひと」と、別にぼくは全国津々浦々を見聞する流浪のものではないし、学生という身分に安住する怠惰の人を標榜しているわけだから。しかしまあ、「観光客」という意味ではそうなのかな、と。
 「うむ」
 腕を組み組み答えた。
 「そう。そこまで、あるかない」

 

 我々はともに山を下り、午後のせせらぎを脇に歩いた。「彼女」はどうやらこの辺りの者であるようで、辺りを囲む大小の山々をときおり指さしては、あれは何々という名前だとか、あの辺りはよく山女魚などが釣れるから、地元の翁がよく分け入るのだとか、そんなことをぽつりぽつりと呟いていた。相変わらず色のない声だった。
 我々はそうやってしばらく「肩を並べて」歩いたわけだが、どうなのだろうね。今になって思うと、畑仕事をしながらこちらを見ていたご老人方なんかには、独り相槌を打ちながら歩くぼくがうつっていたんじゃないかと、そう思うよ。
 歩きながら、ぼんやりと思ううちに―「彼女」をどう形容したものか、とかね―ぼくは気付いた。あるいはそう諦念した。
 「彼女」は3次元的でないんだ。生身の人間という感じはハナからないんだが、それ自体を怪訝に思わせないところが特徴という感じなのだが。実体はそこにあるのに、なんだかそこには何もないような感覚。なにも観念論の話をしているのではないよ。2次元的というわけでないんだが、3次元的ではもっとない。もう、それでいいかな。
 なんとかロードという看板が小さく見える国道沿いに至る手前に、唐突に木立があって、そこには地蔵だか道祖神だか判別がつかない、つまりは人型をかたどったようにも見えなくはない石が祀ってあって、そこまでゆくと「彼女」は蹲って手を合わせた。
 「へえ、信心深いのだね」
 と、若干の驚きを込めて言うはずの台詞が、どうも無表情にぼくの口からこぼれた。
 「うん」

 

 民宿の前まで来ると、並べていたはずの肩が、ぼく独りだけになっていた。だからと言って、「彼女」が超常的に消えたわけではない。振り返ると、「彼女」は初めて相対したときとおんなじ姿勢で、こちらを眺めていた。なんとなしに、組んでいた腕を解いて手を振ってみた。
 それに反応したかのように、「彼女」は行ってしまった。去り際に微笑んだように見えたが、そんなことは決してありえないはずだった。
 名残惜しくはなかったが、清々しいわけでもなかった。強いて言うならば、「さわやか」とした感じかな。おそらく本来の意味ではなくて、それこそありようもないものにくっついてそれでいてしっくりくる、そんな感じの「さわやか」。
 何で「さわやか」なのかって?そりゃあ、宿に入るなり女将さんが、訛りのある口調で、「あらお兄さん、さわやかになりまして」とおっしゃったからだ。この場合の「さわやか」は方言なのかもしれない。が、調べてもこの地方にそんな方言は無かった。
 部屋に戻り、落陽に浮かぶ山並みを眺めながら、なんとなく「さわやか道祖神」と呟いた。呟いてから、不思議と語感が気に入って何度か繰り返した。「さわやか道祖神」「さわやか道祖神」。
 そうしているうちにやっと、それこそ自然に、「今日の出来事は、きっと狐か狸、あるいは夏の暑さに化かされたのだろう」と、思うことができた。「彼女」の顔すら、もう思い出せないしね。

 

 彼は終始飄々と語っていた。彼はいつも飄々としているやつなのだが、その時はなんとなく努めて飄々としている感じだった。何が違うのかと問われても知らないが。
 彼に出されたベトナム風コーヒーは、すでに飲み干されていたわけだが、感想を述べないところを見るに、外れだったのだろう。
 「それで、今回の君の見聞録から、私はどんな教訓、あるいは所感を得ればいいんだい。私は無知だからねえ。おしえてくれないか」
 彼は、「言うと思った」とにやけて、わざとらしく腕組みをしながら天井を仰いだ。
 「そうさねえ。信仰―宗教的観念―とか、人の信心についてとか、まあ様々あるのだろうが、まあやはり、君が学ぶ、というか自覚すべきは、その気質だろうね」
 そういって彼は、コーヒーをかき混ぜる棒切れ(なんと呼ぶのか、私は存じない)でもって、私の手元を指した。
 がちがちに噛まれ尽くしたストロー。くしゃくしゃに散らばった紙ナプキン。そして神経質な感じでぎこちなく頬杖をつく「私」。
 「ぼくはこれを自信をもって言えるのだけれどね、例の「彼女」を前にしても、君はその―君自身が言うところの―「醜い」気質と、それに付随する劣等感を筆頭にした感情を、決して失いはしないだろうね」
 その通りだ。
 そう思って、私は歯ぎしりをした。

 

おしまい

 

 

 私はこれを自信をもって言えるのだけれどね、例の「彼女」を前にしても、私はこの「醜い」気質と、それに付随する劣等感を筆頭にした感情を、決して失いはしないだろうね。

あほか。