原田のゴミタメ。

私が語ることは、すべて接頭に「私にとって」が与えられねばならない。我儘で、自分勝手で、醜く幼い私の誇大妄想。私的な論理の飛躍は決して万人に敷衍されてはならないが、万人が私の妄想を否定したとき、もはや私には生きる必要がないと思われる。せつに、そう思うのである。

死に至る病

死に至る病
キェルケゴール著/斎藤信治訳
岩波書店

教化と覚醒を目的とする一つのキリスト教的=心理的論述、
アンティ=クリマックス
セーレン=キェルケゴール編。
コペンハーゲン 1849年

主よ!無益なる事物に対しては我等の眼を霞ましめ、汝の凡ゆる真理に関しては我等の眼を隈なく澄ませ給え。

本書の「論述」の形式は多くの人には奇妙に思われるかもしれない、―それは教化的でありうるためにはあまりにも厳密であり、厳密に学問的でありうるためにはあまりにも教化的である。この後の点については私は何も言うべき言葉を持たぬが、前の点に関しては私は違った意見である。だが本書の論述がもし本当にあまりに厳密すぎて教化的でないとしたら、それは私の眼から見れば失敗ということになる。もっとも誰もが本書の論述についてくるだけの諸前提を持ち合わしているわけでもない故に、おそらく本書は誰に対しても教化的であるというわけにはいかないかもしれない、だからといってそれはまたそれなりに教化的でありえないとも限るまい。一体キリスト教的にいうならば一切は、それこそ一切が教化に役立つべきである。結局において教化的でないような学問性は、まさしくそのことの故に非キリスト教的なのである。キリスト教的なるものの一切の叙述は医者の臨床講義にも似たものを持っていなければならない、―ただ医学に通じた者のみがこの講義を理解しうるにしても、講義が患者のベッドの側で行われているのであることを忘れてはならない。キリスト教的なるものの人生に対するこのような関係は(学問による人生からの高踏的な背離とは反対に)、換言すればキリスト教的なるもののこのような倫理的側面は、まさしく教化的なるものである。教化的な叙述の仕方は、それがその他の点ではいかに厳密であろうとも、かの種の「冷静」な学問性とは全然、質的に、異なっている。キリスト教的にいうと学問の超然たる英雄的精神なるものは、英雄的精神であるところかむしろキリスト教的には非人間的な好奇心の一種でしかない。キリスト教的な英雄的精神(おそらくこれはごく稀にしか見出されないものであるが)とは、人間が等しく彼自身であろうとあえてすること、一人の個体的な人間、この特定の個体的な人間であろうとあえてすることにある、―かかる巨大な努力をひとりでなし、またかかる巨大な責任をひとりで担いながら、神の前にただひとりで立つことである。「純粋」な人間のふうをしたり、世界史の運行に関してお託宣を並べたりするのは決してキリスト教的な英雄的精神ではない。キリスト教的な認識は、その形式がどのように厳密であろうとも、すべて配慮でなければならない、―これこそまさに教化的なるものである。配慮とは人生に対するすなわち人間的な現実に対する関係であり、したがって(キリスト教的には)真剣ということである。冷静な知識の超然性は(キリスト教的には)より高次の真剣さであるどころか、それは(キリスト教的には)戯言と虚言とを意味するにすぎない。真剣ということがまた教化的なるものである。
 それ故にこの小さな書物はある意味では神学校の生徒にでも書けるような種類のものであるが、しかしおそらくまた他の意味ではどの大学の先生にも書けると限ったものではない。
 とにかくこの論文がみられる通りの体裁をもっているのはいろいろ考えての上のことなので、それもまたこの方が心理学的に正しいのである。世間にはもっと儀式ばった様式のものもあるが、それは時とするとあまりにも儀式ばりすぎて結局何のことやらわけがわからなかったり、また人々がそれに慣れすぎてしまう結果一向無意味なものになったりしがちのものである。
 最後にこれは無論特に断るまでもないことではあるが、そのよけいなことをひとついわして頂きたい、―というのは本書の標題にもあるように、絶望は本書全体を通じて病として理解されているので、薬として理解されているのではないということをここではっきりと注意しておきたいのである。絶望はそれほど弁証法的なものなのである。同じように死もまたキリスト教の用語では精神的な悲惨の絶頂を示す言葉なのであるが、しかし救済はまさに死ぬことにおいて、往生において、成立するのである。

1848年。

緒論

「この病は死に至らず」(ヨハネ伝十一・四)。それにも関わらずラザロは死んだ。キリストの弟子達が、「われらの友ラザロ眠れり、されど我呼び起さんために往くなり」というキリストのその後の言葉の真意を理解しなかったときに、キリストは弟子達に直截にこう語った、―「ラザロは死にたり」(十一・一四)。かくしてラザロは死んだ、にもかかわらずこの病は死に至らなかったのである。ラザロは死んでしまった、にもかかわらずこの病は死に至っていない。もっとも我等はキリストがそのとき当時の人々に「もし信ぜば神の栄光を見せしむ」べきはずであった(十一・四)奇蹟のことを考えておられたことを知っている。キリストがラザロを死人の中から甦らしめたあの奇蹟、―かくて「この病」はただ死に至らなかったのみではなく、キリストが予言したように、神の子がそれによって栄光を受け神の栄光が顕されるに至った(十一・四)かの奇蹟のことをキリストは考えておられたのである。おお、されど、もしキリストがラザロを甦らしめなかったとしても、この病が、いなその死そのものさえもが、死に至るべきものでなかったということは同様に真ではないであろうか?キリストが墓の側に歩み寄って声高に「ラザロよ、出で来たれ」と呼ばわるとき(十一・四三)、「この」病は死に至るべきものでないことは無論十分に確かである。だがもしキリストがそういわなかったとしても、「復活にして生命」(十一・二五)であるキリストが墓のもとに歩み寄るというそのことだけでもうこの病は死に至らないということを意味してはいないであろうか?キリストが一般にそこにあるという事実が、この病は死に至らないということを意味していないであろうか?よしラザロが死人の中から甦らしめられたとしても、結局はまた死ぬことによって終局を告げなければならなかったとしたら、それがラザロにとって何の役に立とう?キリストが、彼を信ずるすべての人にとって復活であり声明であるような方でなかったならば、それがラザロにとって何の役に立とう?いな、ラザロが死人の中から甦らしめたからして、そのためにひとがこの病は死に至らずといいうるのではなく、彼がそこにあるからして、その故にこの病は死に至らないのである。一体人間的にいえば死はすべてのものの終りである、―人間的にいえばただ生命がそこにある間だけ希望があるのである。けれどもキリスト教的な意味では死は決してすべてのものの終りではなく、それは一切であるものの内面におけるすなわち永遠の生命の内部における小さな一つの事件にすぎない。キリスト教的な意味では、単なる人間的な意味での生命におけるよりも無限に多くの希望が、死のうちに存するのである、―この生命がその充実せる健康と活力のさなかにある場合に比してもそうである。
 それ故にキリスト教的な意味では、死でさえも「死に至る病」ではない。いわんや地上的なこの世的な苦悩すなわち困窮・病気・悲惨・艱難・災厄・苦痛・煩悶・悲哀・痛恨と呼ばれるもののどれもそれではない。それらのものがどのように耐え難く苦痛に充ちたものであり、我々人間がいな苦悩者自身が「死ぬよりも苦しい」と訴えるほどであるにしても、それらすべては―かりにそれらを病になぞらえるとして―決してキリスト教的な意味では死に至る病ではない。
 キリスト教キリスト者に対して、一切の地上的なるもの、この世的なるものについて、更には死そのものについてもさえかくも超然たる考え方をすることを教える。人間が普通に不幸いな最大の災厄と呼んでいるものすべてをキリスト者がかくも誇らしげに眼下に見下ろすとき、彼は高慢にならざるをえないようにさえ思われる。だがそのときキリスト教は再び人間が人間としては知らない悲惨を発見したのである、―「死に至る病」がそれである。自然のままの人間が怖るべきものとして数え上げるようなもの、彼がそれをことごとく数え上げもう何も挙げるものがなくなった場合でも、それはキリスト者にとってはまるで冗談のようなものである。自然人とキリスト者の関係はちょうど子供と大人との関係のようなものである、―子供の怖ろしがるものを大人は何とも思わない。子供は怖るべきものの何たるかを知らない、―それを大人は知っていて怖ろしく思うのである。怖るべきものを知っていないというのが子供の未熟な第一の点である。第二にそこからして子供は怖るべきものでないものを怖れるということが結果してくる。自然人もまた同様である。彼は何が真実に怖るべきものであるかを知らない、しかしそれで恐怖から免れているのではなく、かえって怖るべきものでないものを怖れるのである。神に対する異教徒の関係もまた同様である。異教徒はただ単に真実の神を知っていないだけでなく、加うるに偶像を神として崇めるのだ!
 キリスト者のみが死に至る病の何を意味するのかを知っている。彼はキリスト者として自然人のしらない勇気を獲得した。彼はより怖るべきものを怖れることを学ぶことによってかかる勇気を獲得したのである。こういう仕方によってのみ人間は勇気を獲るのである。人間はより大なる危険を怖れているときに、いつもより小なる危険のなかにはいりこんでゆく勇気をもつのである、―もし人間が一つの危険を無限に怖れるならば、ほかのものは存在しないも同様である。ところでキリスト者の学び知った怖るべきものとは、「死に至る病」である。

第一篇

死に至る病とは絶望のことである。

一 絶望が死に至る病であるということ。

A、絶望は精神におけるすなわち自己における病であり、そこでそこに三様の場合が考えられうる。―絶望して、自己をもっていることを意識にていない場合(非本来的な絶望)。絶望して、自己自身であろうと欲しない場合。絶望して、自己自身であろうと欲する場合。

 人間は精神である。精神とは何であるか?精神とは自己である。自己とは何であるか?自己とは自己自身に関係するところの関係である、すなわち関係ということは関係が自己自身に関係するものなることが含まれている、それ自己とは単なる関係ではなしに、関係が自己自身に関係するというそのことである。人間は有限性と無限性との、時間的なるものと永遠的なるものとの、自由と必然との、総合である。要するに人間とは総合である。総合とは二つのものの間の関係である。しかしこう考えただけでは、人間はいまだなんらの自己でもない。
 二つのものの関係においては関係それ自身は否定的統一としての第三者である。それら二つのものは関係に対して関係するのであり、それも関係のなかで関係に対して関係するのである。たとえば、人間が霊なりとせられる場合、霊と肉との関係はそのような関係である。これn