総理生の精神状態の一例。(劣カイエ)
以下に並べるのは2019後期からの筆者の精神状態の記述である。
私はこの罵詈雑言を、孤独な総理生の精神の一例として提出する。
大多数の方々にとってこれは幼稚の極みであろう。
新入生の御方々が同様の精神状態に追い込まれることを切に願う。
——総論(2021年8月追記)——
私にとってH大学総合入試理系とはいかなる意味を持つものであったか。現時点での答えとしては、それは次の事実の現実的な(すなわち何よりも強烈な)自覚に他ならない。すなわち、どれだけ健全で、幸福に満ちていて、笑顔をまとい、まさにあるべき「規範」として称揚されるような風景であっても、その足元には腐り果てた夥しい敗者の死体が積み上げられているということである。具体的に言うなら、大学のパンフレットに掲載されているような、研究室でカメラに笑顔を向けながらピペットを握っているような女子学生の足元には、望みながらもそこに至れなかった敗者どもの屍が腐臭をあげながら蠢ているという厳然たる事実である。
注意すべきは、これは善悪とは何の関係もないという点だ。なぜならこれが、少なくとも総合入試理系やそれに類似する制度の中における単なる事実であるからだ。現にこうであるという事実に、後から「それは悪意をもってなされたものだ」という説明を与えたところで、それは徹頭徹尾恣意的なものにすぎない(尤も、それが「ダメだ」という話でもない)。そもそも、上記のようであったからといって、笑顔で微笑む女学生が何か罪に問われるということがあるだろうか?
あろうはずがない。それどころか、彼女には一切の悪の概念すらも帰されるべきではない。彼女は、人並みか、あるいはそれ以上の努力と苦心惨憺の末にそこにいるのであって、その事実は、たとえ第三者が「その努力は環境が整っていたからできたのだ」と指摘したところでなんら意味合いの変わるものではない。当然ながら、彼女が、足元に転がる死体に負い目を感じる義務も道理もありはしない。
とまれ、私がここで言いたいのは、ただそうであるという事実。善悪や利害に関係なく、総合入試理系制度が、少なくとも私に対して、その事実を鮮烈に自覚せしめたという、それだけのことなのである。少なくともこの記事は、他のとるに足らない腐った雑文と違って、「少なくともこうであった」という事実を報告することを旨としているのだから、このことはよく自覚されるべきである。すなわち以下に並べる記述というのは、「私のような人間が」「総合入試理系制度を経て」「その不安定さと宙吊りになった願望の中にあって」どのようなことを考え、感じ、過ごしたのかという、その事実の列記であって、「こうした事実すら自覚できない人間が共生だの尊重だのを謳う資格はない」というようなお気持ちの表明では全くないという点である。
繰り返しになるが、どれだけ健全に見える風景であっても、また他ならない自分自身の立場であっても、その足元には腐り果てた夥しい敗者の屍体が踏みつけになっていることは、善かれ悪しかれ、それ以前の単なる現実である。それからどうするのかは、個人次第であり、社会次第である。
唯一つけ加えられるとすれば、少なくとも総合入試理系における私は、その腐汁滴る屍体の一つであり、またその屍体の山の最下層では「ないのかもしれない」ということだけである。屍体としての私は情動的には上の笑顔に呪詛を向け、下の呻きには安堵を覚えるだろうが、それすらも「現にこうである」という事実であって、是非や善悪以前の問題なのである。
——ここから——
死ねカス。
↑
記念すべき最初の投稿。
(2019/10/6)
解説の意味がわからないのは、彼が間違っているからだろうか?
それとも私が馬鹿なのか?
(2019/11/4)
楽しく歓談し笑い合う連中は、皆等しく爆散すれば良いのだ。
(2019/11/6)
男は醜い。
女は美しい。
しかし男女問わず、周囲を顧みない集団は総じて醜い。
(2019/11/12)
飲み込むのは最終的には自分だ。
いかに傲慢に見えようと、滑稽に見えようと、醜く歪に見えようと、納得しなければ血肉にはならない。
(2019/11/13)
あらゆる道徳や健全という概念は滅んでしまえば良いのだ。
(2019/11/15)
生きとし生けるものは皆死ね。
(2019/11/18)
私が欲した諸事に対する抑制、障害は、これを徹底的に惨殺した上で、排さねばならない。
(2019/11/19)
陽だろうが陰だろうが何でも良い。
とにかくコミュニティに属して「充実」や「安心」がほしい。
どうせ叶わないだろうが。
(2019/11/19)
ただ、恐ろしい。
背後で談笑するクラスメイト(?)は、私のことを嘲笑しているのではあるまいか?
私の醜く不自然で滑稽な一挙手一投足を、一種の哀れみにも似た眼で眺め、内心で嘲笑っているのではあるまいか?
私を見た教員たちは、「あいつは駄目だよ」と暗愚の槍玉に私を挙げているのではあるまいか?
道行く人は私をまるで不具者でもあるかのように眺め、馬鹿にし、「かくあらざるべし」と己に言い聞かせているのではあるまいか?
私は万人にとっての不快物ではあるまいか?
司書は怪訝な眼差しで私を見つめ、他の学生はみすぼらしい醜い浮浪者でも見る目でこちらを眺めているのではあるまいか?
行く先々でただの害悪とみなされているのではあるまいか?
図書館で騒ぐ集団は、私のことを笑っているのではあるまいか?
学業的に劣った私には一切の価値がないのではあるまいか?
全てが私の自己責任である。
嘆いてばかりで何もしないのが悪い。
悪いのは全て私であり、他の全人類は清く正しい。真面目で優しく、努力家で有能だ。
ただの穀潰しに価値はない。
無能め。
働くべきだ。
たとえそこで人格を否定されようと。
無能、世間知らずと罵られようと。
後ろ指をさされ、馬鹿にされ、嘲笑されようと。
何か行動せねばならぬ。
死にたくなるだろうか?
さらに深い鬱に陥るだろうか?
期待はするべきではない。
過信は失望の種である。
そして過信による失望は全て自分の責任だ。
全てにおいてぎこちない愚鈍を必要とするところはあるのだろうか?
ただ人並みに生きたい。
もはや何もわからない。
(2019/11/25)
いろいろな人と話したい。
いろいろな人と笑いたい。
話題が共有できない。
常道はいつも希望とはかけ離れている。
馬鹿だ。
(2019/11/25)
札幌は滅べ。
ありとあらゆる絢爛は滅べ。
全てが弘前になれ。
弘前こそ中庸である。
素晴らしい比率と調和。
他は全てが不揃いである。
(2019/11/25)
周囲が息をするようにする全てが私にとっての困難なのだ。
挙措動作、服飾、会話、話題、笑顔。
皆死ねば良い。
(2019/11/25)
もはや道行く全ての人間が苦痛の種である。
視界に他人が入っただけで自分が酷くみすぼらしい存在に感じる。
全ての人間が視界から排除されない限り、安寧はないのだろう。
ほら、あっちにまた笑い声をあげる一団がいる。談笑するグループがある。
全て害悪だ。目障りだ。
奴らがただ俯いて沈む様を見てみたい。
他人の苦しみや不幸が蜜であるというのは一つの真理かもしれない。
周りを消し去ることはできない。
ならばこちらから意識を断つ他ないのだろうか?
安寧を得るには死ぬしかないのだろうか?
(2019/11/26)
なぜ人はその一挙手一投足においてこちらを眺め、なんとも言えない表情をするのだろう。
私の存在がそんなに不思議か。
そんなに醜く不快なものか。
死ねばいい。
目をえぐったのちに首を地面に埋めるのだ。
二度とこちらを見ないように。
(2019/11/26)
人生経験という観点から見て、浪人を経験した方々に対する劣等感を抱くのは失礼なことだろうか。
少なくとも個人的には、経験、知識の点で、自分よりも遥かに優れているために、劣等感を抱かざるを得ない。
(2019/12/5)
視界に入る全ての人間が消え失せないものだろうか。
(2019/12/6)
周囲が楽しそうに見え、自分が酷く退屈で醜いように感じるのは何故だろう。
自分から楽しもうとしないのが悪いのだろうか。
いや、「悪い」なんて言葉を使うから悲観的になるのではないか。
楽しそうな人間は楽しもうとしていて、そうでないと感じる人間は楽しもうとしていない。
こう言えば良いだけではないか。
しかし私は楽しみたいのだが。
楽しみたいけれど、楽しもうとしていないということだろうか。
したいと妄想するだけで、実行していないのが悪いのだろうか。
だから、「悪い」は禁句にしたじゃないか。
実行とは何か。
私は何事も実行していないのか。
書店を見て回るのは楽しい。
現実感のない風景の中を歩くのは楽しい。
好きな曲を聞くのは楽しい。
歌うのは楽しい。
漫画やアニメを眺めるのは楽しい。
本を読むのは楽しい。
哲学的を装ってものを考えるのは楽しい。
実行はしている。
楽しいと思えることはしているではないか。
しかし、それでは何故彼らが楽しそうに見え、自分が楽しんでいないように感じるのだろう。
何故自分が楽しいと感じないものを、彼らは笑顔で楽しそうにこなすのだろう。
私も人と談笑したい。
しかし、人前ではそれができない。
口に出す全てが、理想とかけ離れた汚濁であり、どもりながら呻く様はさぞ醜かろう。
このような考えがダメなのか。
いや、ダメと否定するのは危ない。
また悲観する。
しかし、自分を醜いと思うこと、これは揺るがないだろう。
現に一歩外に出ればあたりは美男美女。
自分より遥かに優れたもので溢れる世界で、どうして自分を持ち上げられようか。
そして、時たま見かける醜い存在。
自分は徹底的にそちらに属するのだという絶望感。
なるほど、人と談笑するために乗り越えなければならないものごとの、なんと多いことか。
こういう声が聞こえる。
一歩踏み出す勇気。
幸せを得たいならば、楽しみを得たいならば、それを得る努力を為ねばならないという声。
なるほど、つまり努力しようとしない私が悪いのか。
だから、「悪い」は禁句である。
こう言えば良い。
目の前で楽しそうに談笑する彼らは、これらの苦しみを、勇気をもって乗り越えた先人であり、私はまだそれをしていない。
していないだけであって、良いも悪いもない。
しかしそれでは何故彼らは私を異質なものでも見るような目で眺めるのだろう。
かつて経験した苦悩を覚えているならば、後続にそのような仕打ちをするものだろうか。
いや、いささか自意識が過剰なだけか。
しかし、私は周囲の眼を気にしないで過ごすための方法を知らない。
眼を瞑っても、耳から歓声が入ってくる。
姿が見えないところに隠れて独り楽しんでも、この苦しみは消えない。
私は「友人達との談笑」というものを楽しむ者達を知ってしまったのだから。
知ってしまったことからは、逃れられない。
そして、自分の醜さによる苦しみは、独りでも消えないのである。
いずれにせよ。
また人前に出ざるを得ない。
堂々巡りだ。
(2019/12/12)
卑屈は醜いだろうか。
私も以前は醜いと思っていた。
しかし最近では、活発や健全の方が醜いと感じる。
(2019/12/13)
全員が死ぬべきだ。
生きる価値のある人間なんていない。
手始めにてめえが死ね。
(2019/12/16)
ただ苦しい。
叫びたい程の虚無。
文字では表現できず、往来で叫べば異常者である。
家で独り叫ぶ。
醜さが自分独りに襲いかかる。
虚しさは募るばかり。
(2019/12/17)
万人は死ぬべきだ。
殺してやりたい。
(2019/12/17)
笑顔は徹底的な害悪である。
周囲のあらゆる人間に劣等感を抱かせる害悪。
関係のない第三者の胸倉を掴み、「お前は醜く不幸だ」と怒鳴りつける不快の権化である。
人は笑う。
醜く不幸な人を指差して、嘲笑する。
仲間内で集まり、こそこそと第三者を中傷する。笑いながら。
笑顔はあらゆる差別、不和、汚濁の根源である。
世界から笑顔が駆逐されぬ限り、世界平和など夢のまた夢である。
私はここに、高校時代に考えた理想郷を再掲する。
人間は、幸せな人を見て、自分を不幸だと認識し、ある人はより高みに、またある人は悲観に走る。そして幸不幸の格差は増大する。
つまり、もとより比較対象が存在しなければ、このような悲劇は起こり得ない。
皆が平等であれば良いのであり、このとき、全人類を幸福にするか不幸にするかでは圧倒的に後者の方が容易い。
最後の一人が不幸になったとき、訪れるのは絶対的中庸と安寧である。
もはや忌むべき笑顔も幸せもない、完全な世界的安泰が、そこにはある。
(2019/12/18)
学生時代に健全な幸せを享受した若人が、社会に出てあらゆる不幸や苦しみを除こうと、真面目腐った顔で空を見上げる。
これほど滑稽な構図があろうか。
(2019/12/18)
なんだこの中途半端な顔は。
中途半端が一番醜い。
汚濁のような醜い容姿。
(2019/12/24)
悩む男ほど醜いものはない。
(2020/1/2)
救いがないという徹底的な断言は、私を殺すだろう。
(2020/1/14)
楽しめるなら、たとえ幼稚と揶揄されようが、私は構わない。
(2020/1/16)
充実した、幸せな人を見ると、「おまえは充実していないのだ」と責め立てられているように感じる。
(2020/1/20)
「ぼくはともだちが100にんほしいんだ」
Kくんはそんなきもちをむねにだいて、にこにこしながらだいがくえいきました。
Kくんにおともだちはできませんでした。
Kくんはおほんをよむのがだいすきです。
Kくんはまいにちにこにこしながらとしょかんえいきました。
そこではKくんとおないどしのみんながたのしそうにおべんきょうしています。
Kくんはひとりでおほんをよみます。
それはとてもとてもたのしくて、とてもとてもとてもたのしくて、とてもとてもとてもとてもたのしくて。
たのしくて。
たのしくて。
たのしくて。
たのしく。
たのしい。
たのしい。
みんなもとてもたのしそうにおしゃべりしていました。
みんなえがおで、しあわせそうで、たのしそうで。
やさしく、あたたかく、やわらかなばしょがそこにはありました。
とてもたのしかった。
めでたし。
(2020/1/21)
「私」が楽しくないという、何よりも重要な問題。
(2020/1/21)
たのしくないのです。
たのしくないのはたのしもうとしないじぶんがわるいのだとかんがえるのはくるしいのです。
たのしくないのです。
みんなたのしそうにしていてそれもみんなたのしもうとしているからたのしそうにみえるんだだからそれをひがんでたのしくねーたのしくねーってわめいているおまえがわるいんだとかんがえるのはくるしいのです。
たのしくないのです。
だいがくはたのしいところだとおもっていましたじっさいたのしもうとどりょくしているひとはたのしくすごしているのだろうからけっきょくたのしむどりょくをしないおまえがわるいんだとかんがえるのはくるしいのです。
たのしくないのです。
なにかちがうのです。
こうこうのときはだいがくはたのしいところだとおもってべんきょーをがんばりましたでもおもっていたのとはちがいましたこれからもこうやってつぎのすてーじはたのしいにちがいないとじぶんをだましていきていくのでしょうかそうやってけっきょくさきのばしにしたものをみあげながらしんでしくのでしょうかこんなことをかんがえるのはくるしいのです。
なにもしないじぶんがわるいのです。
わるいのはわたしなのです。
ぜんぶわるいのはわたしなのです。
せきにんということばがついてまわりますなにかをしようとするとじこせきにんをおわなければならないそうですさーくるをつくりましたいっぱいひとがはいりましただからみんなをまんぞくさせなければなりませんじこせきにんですわたしはなにもたのしくありませんひとりでじぶんがつくったぽすたーをはっているときがいちばんたのしかったあたまのなかでさーくるをうごかすのがたのしかったいまわなにもたのしくありませんむずかしいことはわかりませんわたしはあたまがわるいしようりょうもよろしくないのでたのしくないのですみんなわたしをみてわらいますみんなたのしそうですわたしはたのしくありませんたのしもうとしないわたしがわるいのですぜんぶわるいのはわたしなのですいつもねるまえにとなえますたのしいたのしいたのしいたのしいたのしいたのしいたのしいたのしいたのしいたのしいたのしいたのしいたのしいたのしいたのしいたのしいたのしいたのしいたのしいたのしいたのしいたのしいたのしいたのしいたのしいたのしいたのしいたのしいたのしいたのしいたのしいたのしいたのしいたのしいたのしいたのしいたのしい。
たのしくありません。
(2020/1/21)
大学ですよ?楽しくなきゃ嘘でしょう。
(2020/1/23)
毎日涙を堪えながら道を行く。
周りは楽しそうであるのに私は楽しくない。
きっと何かこういう罰を受けるにふさわしい悪行をしたのだ。
一年、もしくはそれ以上を地獄のような孤独と自己嫌悪で過ごすにふさわしい悪行をしたのだ。
そうでなければおかしいじゃないか。
今日も周りは笑顔で、健全で、真面目で、充実している。
(2020/1/27)
死は救済。
そうかもしれない。
(2020/2/2)
大学のパンフレットに載っていた、研究室で楽しそうに笑っている女子学生。
あの笑顔の後ろにある、夥しい敗者の死体の山。
血を吐き、精神を病み、這いずり回る、人生をどぶに捨てた、敗者の叫び。
健全は、それ以外の概念に唾を吐き、平然と笑っている。
(2020/2/6)
最近、よくわからなくなる。
私は、経済的にも性格的にもいたって普通の家庭に生まれ、問題なく小学校に通い、問題なく中学校に通い、いたって平凡な中学校に通い、おそらくは人並み程度の努力を経て大学まで来た。
ところがなんだ。
何なんだこの周囲との差は。
「親が離婚しました」「酒を飲んでいます」「タバコ吸ったことあります」「多浪です」「女性経験があります」「海外に行ったことがあります」云々。
みんな私より豊かな経験を持ち、みんなそれがあたかも普通であるような顔をして平然と歩いている。
彼らが普通という時、それは私にとっての「特別な状況」であり、それだけで「普通の人生」を過ごしてきた私は、なんだか劣っているような気分になる。
そして彼らは平然と友を作り、笑いあい、時には馬鹿をしながら人生を謳歌している。
私は、ただ「平坦な人生」を送ってきたというだけで、劣等感に苦しみ、それがなんだか恥ずかしいもののように感じ、自分を、自分の人生を、自分の血族を呪う。
いや、もしかしたら私の人生は「普通の人生」ですらないのではないか。
だって私は麻雀のルールを知らない。人狼のルールを知らない(先日まで)。みんなが笑顔で共有できているはずの話題を知らない。
私の人生は「普通の人生」ですらなく「貧相な人生」なのだ。
経験に乏しい人生。
スポーツに興味を抱けないのは貧相か。
ポケモンを知らないのは貧相か。
この気質は、この短期で自分本位で醜い気質は貧相か。
都会から来た人々はオシャレだなあと思う。
札幌に住む人々はオシャレだなあと思う。
そのファッションセンスは、どこで手に入れたんですか。
街を歩くと、自分の持つすべてが貧相でみすぼらしく感じる。
そして、この苦しみはすべて自分にしか帰属しないという、これまで何千回も繰り返してきた自問自答。
苦しくて喚いても、その姿は徹頭徹尾醜い。
感情的にまくし立てているときに挟まれる、冷静な感想。
それを受けた私は、醜く膨れた豚だ。
何も為さないのはあまりにも虚しく、何かを為せばあまりにも醜い。
なぜ?
同じ年月を生きてきたはずなのにみんな私より物を知っているの?
私より経験しているの?
自分があまりにも幼く感じる。
なぜ?
同じ年月を生きてきたはずなのに。
私はいつも世間知らずの子供の様に喚くだけ。
何もしない。周りはどんどん進んでいく。
私は、勉強ができないから哲学を始めた。
幼い私には、「わからない」が常識とされる世界があまりにも魅力的だったから。
私は、幼稚だから哲学にすがっている。
幼稚な私には、「何か深淵なことをやっっている自分」の姿しか満足できるものがないから。
友達が欲しい。
親友が欲しい。
私が恋人づくりに消極的なのは、代償が恐ろしいから。
既に日常においてとてつもない苦しみにあえいでいるのに、それを誤魔化すのに精一杯なのに、どうしてそれ以上の労力を割ける?
支払える対価など、とうにそこを尽きているのに。
そして「みんな」はそれがあたかも常識であるかの如く恋人を作り、笑い、とても幸せそうに…。
それがあたかも常識であるかのように、「私の知らない」話題でにぎわい。
無償の愛があるのならば欲しい。
いや、愛でなくてもよい。
心安らげる場所が欲しい。
私が真に求めるのは、「友達」ではなく「心安らぐ」関係なのだ。
だって友達を持っている人たちはあんなに楽しそうじゃないか。
「静かな図書館」というのは、「静かに本を読めるから」好きなのではない。
それが、「心安らげる場所」に近いから好きなのだ。
だから、私の幼く苦しい日常からその場所を奪う輩を許せない。
感情的にならざるを得ない。
そしてまた醜く喚く。苦しい。
どこで間違えたのかわからない。
人生を思い返しても、すべてが必然のように思われる。
絶対に楽にならない苦しみ。何をしても軽くなることのない苦しみ。
死にたいとつぶやいても、「死にたい」という語彙しか絞り出せない幼さにうんざりするだけ。
もはや死以上の爆発的な破滅が欲しい。
一切を終わりにしたい。
だって苦しいのは嫌なのだから。
(2020/2/9)