少なくとも個人主義者にとって、他人の幸せを祝うことは決して義務ではあり得ないし、むしろ相対的に自分の幸せが貶められているにも関わらずそういうことを要求されるのはもはや狂気の沙汰である。
他人の幸せを自分の幸せのように祝える人は、少なくともその点で十分幸せな段階にいるのであり、少なくとも自身が不幸であると嘆くことは許されない。いや、嘆いても良いが(※)そこに正当性はなく、他人の幸せすら祝えない敗者の山に呪い殺されることを覚悟せねばならない。
※全てにおいて、「〜してはならない」という言明は決して禁止を強要する力を持ち得ないが、その言明をあえて犯すならば一切の正当性、合法性の庇護の下からの脱落を覚悟せねばならない。そしてそれは、足元に転がる無数の敗者の屍の暴力的な怨恨憎悪のもとに全裸体で飛び込むことを意味する。