原田のゴミタメ。

私が語ることは、すべて接頭に「私にとって」が与えられねばならない。我儘で、自分勝手で、醜く幼い私の誇大妄想。私的な論理の飛躍は決して万人に敷衍されてはならないが、万人が私の妄想を否定したとき、もはや私には生きる必要がないと思われる。せつに、そう思うのである。

お遊戯

全く読むことができない.

内容が頭に入ってこない.

私はいつになったら哲学ができるのだろうか.

理解することは,他人に語れるようになること.

私は語れない.

内容の無いそれらしいことを,知ったかぶりで嘯くことしかできない.

私はいつになったら哲学ができるようになるのだろう.

いつまでも,哲学を始めるときに繰り返されるような,あの,ありきたりで,ひたすらにそれっぽいだけで,受講生に陳腐な迷妄や懐疑を抱かせて満足させるだけの,あるいは受講生が哲学に至るまでの道のりをただ肯定するだけの,安看板に書かれた「THE 哲学」という感じの,

「さあ考えてみよう!人生って何だろう?」

「幸福って,愛って何だろう?」

「死ぬって何だろう?」

「わからないだろう?不思議だろう?哲学って何だろうね?」

と.

まるで幼稚園児にでも諭すような雰囲気の,問いに見せかけたお遊戯の.

まだ入り口でもないようなところで,延々と馬鹿らしく足踏みしているだけのように感じる.

哲学をやりたい.

私が哲学の講義で教えて欲しいのは,こんな遊戯ではない.

いったいいつまで,「死って何だろうね?」と,それこそ哲学の入門書を開けば最初に書かれているような,ありきたりも良いことろの御託をありがたがっていればいいのだ.

講義で私が知りたいのは,「いかにして考えるか」「いかにして読むか」「いかにして組み立てるか」「いかにして議論するか・有意義な,有意味な議論とは何か」だ.

それを教授して欲しい.

私は,哲学をやりに来たんだぞ.

生物学でもない,化学でもない,数学でも,物理学でもない.

ただ哲学をやるために,大学に来たんだぞ.

だから,哲学のやり方を教えてくれ.

 

「深淵を覗くものは,深淵にも覗かれている」

しかし真に深淵を覗いているものが,いったいどれだけいるのか.

少なくとも私は,未だ「深淵」という絵を眺めているに過ぎない.

単なる偶像を,有難がっているに過ぎない.

深淵にいたる道筋を,遊園地ではなく,深淵に至る道程を,教えて欲しい.