原田のゴミタメ。

私が語ることは、すべて接頭に「私にとって」が与えられねばならない。我儘で、自分勝手で、醜く幼い私の誇大妄想。私的な論理の飛躍は決して万人に敷衍されてはならないが、万人が私の妄想を否定したとき、もはや私には生きる必要がないと思われる。せつに、そう思うのである。

雑記

人情として、なんとなく哲学者には達観していて欲しいと思ってしまうのだけど、というか、哲学者というものはいざ伝記を紐解けば、達観しているというか、別の次元でぶっとんでいて、「はえー」となるわけだけれど、実際同時代に生きた人からすればそんなことは全然ないのかもしれない。

口伝されるうちに神聖化されているだけで、存外哲学者というものは俗っぽかったりするのかもしれない。

「パンのための哲学」を嫌ったSchopenhauerが、有事に際し、金袋のために自身の哲学を実践できなかったように。