原田のゴミタメ。

私が語ることは、すべて接頭に「私にとって」が与えられねばならない。我儘で、自分勝手で、醜く幼い私の誇大妄想。私的な論理の飛躍は決して万人に敷衍されてはならないが、万人が私の妄想を否定したとき、もはや私には生きる必要がないと思われる。せつに、そう思うのである。

M園長の笑顔

 

先日、非常に痛ましい事件が報道された。

幼稚園の送迎バスに取り残された園児が、熱中症で亡くなったというのである。

その後、事態を受けて園の会見が開かれたのだが、この会見がまた大きな波紋を生んだ。

会見の終了に際して、当事者であるそのM園長が、笑顔をこぼしてしまったのである。

 

しかしながら、この笑顔というのが、又たいそう不思議なものであった。

 

私がこの園長の笑顔をはじめて見たのは、起きて朝食を食べながら、SNS上で適当なニュースを眺めていた時だった。

件の動画は、会見の様子を見ていた第三者が憤りのコメントと共に切り抜き投稿したもので、会見の終わりにあってまさに園長が笑顔を漏らすその瞬間をピックアップしたものであった。

私はこの動画を、「園児を車内に取り残し、挙句死なせてしまった事件の会見」という前提知識のもと眺めた。

園長が笑顔をこぼした。想像以上の笑顔であった。

私は「これは酷い」と思い、あまりにも酷いので、「うわぁ」という皮肉じみた嗤いを溢してしまった。

 

私が二度目に園長の笑顔を見たのは、すっかり陽が落ちたその日の夜に、大学を後にし、近所の定食屋で夕飯を済ませた直後だった。

日中をとりあえず乗り越えた疲労感と、腹を満たした多幸感。

こうした所感の中でSNSを開いた瞬間、偶然にも、この園長がまさに笑う瞬間の動画が目に入ったのである。

咄嗟のことだったので、私はこの動画を「なんだか知らないが、重要そうな会見で『笑み』をこぼしてしまったおじいさん」のものと認識した。

園長が笑った。全く屈託のない笑顔だった。

つられて、私も思わず笑みを溢した。

自然と独り「ふふっ」となったのである。

 

むろん動画は朝見た会見と同じものであって、改めて状況を踏まえると、確かに園長の「笑顔」はとても酷い。

それこそ世間が騒ぎ立てているような「無責任」「他人事」の語がピッタリ当てはまるようなものである。

しかしながら、園長の笑顔を繰り返し眺めてみても、笑顔それ自体は、まさに「屈託のなさ」に塗れた、どこにでもあるようなものだった。

以下は全くのでたらめであり、妄想であるが、しかしあのような笑顔がこぼれるに至った経緯は容易に想像できる。

長い、とても重い内容の会見が終わり、気が緩む。そして「再発防止に努めます」云々のお決まりの口上を述べ終え、しかし言われてみれば、そもそもこのような重大事件を起こした園が存続するかも怪しい。確かにそうだ。はは、これは「廃園になるかもしれないね」と。

 

ホッとしたときにこぼれる「笑顔」。

皮肉でも揶揄でもない、言ってしまえば理性から解放された、「狡猾」や「悪意」なんてものは微塵も含まれない、人間の当たり前の「笑顔」

「状況」によって全く信じられない様相を呈してはいるが、しかしあそこにあるのは、まさにそのような「笑顔」であった。

モラリストであれば、ああいうことをしでかしてしまう人間や、それを可能にする社会・集団を「異常」だの「論外」だのと呼びならわしてしまうのだろう。あれは「非道徳的な」パーソナリティ、「杜撰な」環境の中で生まれた「お話にならないもの」だとカテゴライズしてしまうのだろう。

しかしながら、あの笑顔は、我々が普段すれ違う、どこにでもいる人間がこぼす「当たり前」の笑顔であった。

もちろん、今後の報道で、あの園長の「普通ではない」精神性や、「考えられない」ような半生が詳らかにされる可能性はある。

けれども、部外者である私には、少なくとも報道された「笑顔」それ自体に、倫理的に責められるべき「悪」を見出すことはできなかった。

 

もちろんあの状況で「笑顔」をこぼしてしまうというのは、全く考えられないことである。

私は当事者でないからこそまさにこのように「他人事」としてものを捉えてしまっているのだが、しかし怒りと悲しみに心を失くしてあの場に居合わせた当事者からすれば、園長の笑顔は言語を絶する、ほとんど「加害」と言ってもよいくらいのものだろう。

状況というのは恐ろしいもので、悲劇の当事者から見れば、ひょっとすると、この件に関して「部外者」「第三者」としてものを喋る全ての存在が「二次加害」に映るかもしれない。彼らからすれば、これは紛うことなき真実である。

 

今回それぞれ異なる所感をもって二度「笑顔」を眺め、私はかつての自分の妄想を思い出した。

かつて私は、道ゆく人がこぼす全ての「笑顔」がある種の「加害」に見えた。

結局のところそれは、漠然とした不安と惨めさが織りなす、ひねくれた「妄想」でしかないのだろう。

彼らに悪意などあろうはずがない。端的な被害妄想である。

実際、今回の件は私に以下のことを確信させた。

第一に、屈託のない「笑顔」というのは、以前私が自分勝手に妄想していたほどには「悪」ではない。

「笑顔」というものは、かつて「笑顔」一般を嫌悪していた人間をしてすら、見ていてつられて笑顔にしてしまうほどの力を有している。

これは普段「笑顔」の素晴らしさとして語られる要素であろう。

笑顔を純粋に擁護し、笑顔のために日々を営む人々は、このことを念頭に置いているのかもしれない。

 

しかしながら「悪意」とは無関係に、確かに「笑顔」は加害性を帯びたものである。

状況と、然るべき所感をもって場に臨めば、「笑顔」は「悪意」とは全く関係なく、人を傷つけ侮辱する凶器になりうる。

 

今となっては、私は日々の忙しさと、目の前に積み上がった明瞭な「やるべきこと」の山を前に精一杯であるので、よほど打ちひしがれた時でなければ「笑顔」が「加害」に見えることはない。

しかしM園長の屈託のない「笑顔」は、少なくとも当事者にとっては純然たる「加害」である。

もしかすると、かつての私、あるいは、然るべき状況に置かれた私からすれば、誰のものとは問わない「笑顔」一般もまた、文句なしに「加害」であったのかもしれない。

ある惨めな、悲惨な状況に置かれた当事者からすれば、「笑顔」もとい「他人の幸福」は紛れもない「加害」であろう。

しかしその種の「加害」は、かつての私の望みに反して、現状の倫理的善悪が問題にするところではない。

どちらも加害であるならば、加害と善悪にはなんの関係もないことになるだろう。

少なくとも「笑顔」に関して、「加害」と「悪意」は分離可能であるのだ。