原田のゴミタメ。

私が語ることは、すべて接頭に「私にとって」が与えられねばならない。我儘で、自分勝手で、醜く幼い私の誇大妄想。私的な論理の飛躍は決して万人に敷衍されてはならないが、万人が私の妄想を否定したとき、もはや私には生きる必要がないと思われる。せつに、そう思うのである。

正当化された差別

差別というものがある。辞典で軽く調べたところによると、それはおよそ全人類平等の理念を前提する限りで、他のいかなる点から見ても不当な行為であるとされている。そしてまたその定義用法は古今東西津々浦々に多様であり、端的に言えば、どう足掻いても人間は差別者でありまた被差別者であるのだという。なんということだろう。もし本当に差別が許されざる不正であり、そして私がおよそ公の理念なるものが成立する社会で寝起きするとしたのなら、私は差別行為を働かなければ、おそよいかなる社会的行動も果たし得ないというわけだ。

 

というわけで、許されざる差別者たるこの身を社会的に呪いながら、私はまた一種の社会的行動に手を染めようと思う。つまり、非常に稚拙で見苦しいものであることを重々に承知の上で、自分の考え、思っていることを述べるという行為に手を染めようと思う。

すなわち以下に書き連ねるのは、「正当化された差別」という、きっと現実に起こっているだろう事柄の記述である。尤もこの中で私は、「差別」という語を、「区別のうち、被害者の生じるもの」「その区別によって、当人の望むあり方が否定されるもの」といったニュアンスで用いる。もちろんこう定義したからといって状況が変わるわけではない。人は誰しも差別者であり被差別者である。戯れに覗いてみた辞典で、日頃の妄想が神妙に記述されているのには面食らった。この世から差別は無くならない。人間が人間である限りは。そしてそれは、善悪とはなんの関係もないことだ。あるのは端的な加害と被害、快と不快だけである。

 

「正当化された差別」というものがある。「差別」がいかに広がりを持った概念であろうと、それは明らかにその直球ど真ん中をゆく行為であり、しかし今現在「仕方のないもの」として見過ごされ、あるいは促進すらされている行為がある。ここでいう「正当化された差別」というのは例えばあの欧米での積極的差別 positive discrimination を含むものである。そして前向きな施策である積極的差別がしかし否応なく被害者を生むものであるのと同様に、いやむしろこの「正当化された差別」は時としてそれ以上に、残酷な仕方で害を被る被害者を有している。すなわち彼は、自分の存在自体を公的に否定されているといっても過言ではないのだ。そしてその差別は、字義通り、正しいこととされている。

 

例えばゾーニング、「公共の福祉」や制度的公平(上述の積極的差別など)は、「正当化された差別」の一種である。すなわちこれらは、本来不当なものとされている「差別」がかろうじて「正当化」されているにすぎないものであり、「正当化」の下に黙認されるその細道を万が一にも踏み外したなら、たちまちにおぞましい迫害、ジェノサイドに転化するものだ。ゆえにこそ、これら概念の取り扱いには最新の注意が必要となる。SNS上では、これら「正当化された差別」をあたかも「現代社会では当たり前のこと」であるかのように扱い、これを持って「こんな当たり前のことも理解できないのか」と呆れたそぶりを見せている人たちが大勢いるが、端的に言ってそれは事の重大さを軽視した行為であり、導火線に火のついた爆弾を「正義の鉄槌」のように振りかざすようなものである。危ない。その糾弾の矛先が自分に向いた倫理ほど恐ろしいものはない。ただでさえ我々は皆差別者であるというのに。およそ倫理が幅を利かせる限りで、我々は「自分であることの倫理的問題」という業病を抱えざるを得ないのだから。

 

話を戻そう。「正当化された差別」というこれらの事象は、しばしばその正当性を無遠慮に拡大して「適切な『区別』と変わりないのではないか」と議論されたりする。しかし以下に見るように、どのように取り繕っても「正当化された差別」はまず第一義に「差別」なのであり、曖昧で漠然とした「正当化」に身を隠しているだけなのだ(かわいいね)。

あなたが考えうるうちで最も下品な、最も低俗で卑猥で不愉快な嗜好を考えてみて欲しい。それらの嗜好、信条は、なるほどその公での表明が「公共の福祉」によって規制される類のものだろう。しかしどれだけ汚く不快な嗜好であったところで、それらが「公共の福祉」により社会的害としてタブー視された瞬間、次のおぞましい疑問が生じるだろう。

 

すなわち、「そこで公に規制される人間は、果たして本当に『公共』に含まれていると言えるのか?」

 

もちろん言えるだろう。公共の福祉は社会秩序になくてはならない。いうならば、彼は自分のあり方を公的に否定・制限されることで「社会に生かされている」のである。しかしながらこのような恩恵の享受は、何も彼だけに限ったことではない。およそ社会の構成員である限りで、誰もが等しくこの恩恵「社会で生かしてもらえる」を享受している。ゆえに次の問題が残ったままになる。

 

すなわち、「彼のあり方に対する規制は公平なのか?」

 

ある者は規制に特段の違和感を覚えずに恩恵を享受する。しかしこの彼は自分の趣向、望むあり方を制限されて初めて恩恵を享受する(でないと彼はサイコパス扱いだ。人格を持った存在として尊重してもらえない)。この差は果たして公平だろうか。彼自身が自分で納得する限りは、自分の中で自分の言葉で折り合いをつけ、幸福にやっていく限りはかろうじて公平だろう。しかし彼でない他者がそれを要求するなら、そこに生じるのは端的な被害・加害の関係だ。

ここに多様性社会(今ここでこさえた造語)が直面する不可避の差別が発生する。ある規制、趣向の否定が社会的要請によってなされるとき、彼は強制的にあり方を否定される。これが差別でないとしたらなんであろう。およそ大多数を賄う「社会」があり、こういった「差別」が社会の構造上仕方のないものだというのなら、否応なく被害者の発生するこの「差別」現象をあくまでも「正当化された差別」と呼ぶことは、建前だけでも「正しさ」なるものを掲げる人間の義務であろう。

 

以上を踏まえるならば、この我らが「正当化された差別」を端的な「区別」なる語に置き換えることがどれだけの暴力であるかがはっきりする。それは「正当化された差別」によるやむを得ない被害者の抹消であり、純然たる迫害なのだ。抹消された被害者が、現実社会にどれだけのフィードバックをもたらし得るかは、彼らの腹の底の人間本性のみが知るところである。

 

=================================================================

 

青二才が以上のようなことを言うと、おそらくは一定のコミュニティで暗黙の合意の下にある「常識」や、あるいは(統計的)科学的な「検証可能性」の刃、またあるいは神聖化された「国際基準」なるものをもって、「〇〇なことも理解できないのか」「こんな『当たり前』なことも理解できないのか」といった、毅然とした文体で呆れたそぶりを見せるあの「お叱り」が飛んできそうなものである。しかし無知で無思慮なこの青二才、現実嫌いで妄想好きの理想主義者に言わせてもらえるなら、こんなことを言う彼らの方が遥かに現実に対し不誠実なのではないか。なぜなら上記の文言は、「〇〇を理解・納得できなければ正当な社会の構成員にカウントしない」というなかなかに端的な差別意識の表明のように聞こえるからだ。少なくとも現実の社会にあっては、現状、人間である以上は誰もが人格とその可能性を尊重される。そうした人たちの中には、世人が考えもつかない次元で理解と納得を拒む者もいるだろう。現に何か社会的な存在に対して、これまで一つの不満も出なかった事例があるだろうか。どのような存在に対しても常に必ず不平不満が叫ばれる。なんの留保もなく無条件に振り翳せる「当たり前」など、出来の悪い創作物以上に現実性を欠いた絵空事にすぎない。もちろん、差別が「ダメ」だと言うのではない。上記を踏まえるなら、何かを徹底的に消滅させてしまおうと徒党を組んで行動することほど人間の差別性を助長させるものはない。我々は皆差別者であり、被差別者である。他人を不快に思うその姿はまた側から見て不快であり、許されざる「当たり前」の損壊が人を正当化された「差別」に駆り立てる。被害者が生まれ、軋轢が生まれる。健全の名の下に呪詛に満ちた慈しむべき日常が営まれる。善も悪もない。あればどれだけ怠惰に済ませることができただろう。