原田のゴミタメ。

私が語ることは、すべて接頭に「私にとって」が与えられねばならない。我儘で、自分勝手で、醜く幼い私の誇大妄想。私的な論理の飛躍は決して万人に敷衍されてはならないが、万人が私の妄想を否定したとき、もはや私には生きる必要がないと思われる。せつに、そう思うのである。

ねがい。

世界が、すべて私だけを慮ってくれたら、どんなに良いだろう!

 

どんなに素晴らしいだろう!

 

どんなにおもしろいだろう!

 

鬱的な、苦しい、違和感のただなかで、ただただこう思う。

 

よくばっちゃいけないんだと、教わった。

 

みんなにやさしくしなさい、ひとをいじめてはいけませんと、教わった。

 

たくさんたくさん絵本をよんだ。

 

いじわるなおおかみは、吹き飛ばされたり、おなかを裂かれたりした。

 

よくばりなおじいさんは、つづらを開けてばけものにおそわれ、いつも最後には痛い目にあう。

 

しかし、考えてみたまえ!

 

「こうありたい」と願って、なにが悪い!

 

「こうありたい」とは、ひとつひとつが、ひかりかがやく宝石だ!

 

みんなが、万人が、願うことのできる、きらきらひかるお星さまだ!

 

おおかみだって、おじいさんだって、願ったのだ!

 

「こうありたい」と!

 

ただ願うことが、なぜ責められる?

 

「わるもの」は、なぜ泣かねばならない?

 

尊重されるべき、大切な願いを、なぜ貶す?

 

 

願ったからには、実現させるべきだ!

 

責任なんてどうでもよろしい!

 

モラル?健全?そんなもの、くそっくらえだ!

 

ただ、幼子のような純粋さで、ひたすら、ひかりかがやく願いを、つかまえるのだ!

 

願え、そして、願ったとおりに、笑うのだ!

 

だれの目もない!

 

すばらしい願いを抱いて、ひたすら、思うままに、笑うのだ!

 

あなたは、そうしてよいのだ!

 

そうするのが、にんげんだ!

 

とっびっきりのことを、やってしまえ!