原田のゴミタメ。

私が語ることは、すべて接頭に「私にとって」が与えられねばならない。我儘で、自分勝手で、醜く幼い私の誇大妄想。私的な論理の飛躍は決して万人に敷衍されてはならないが、万人が私の妄想を否定したとき、もはや私には生きる必要がないと思われる。せつに、そう思うのである。

醜人アグリウスの転落

醜人アグリウスの転落

 

憎むべき醜人アグリウスは言わずもがな、孤独である。
それは醜き罪人には当然の仕打ちであり、誰も彼を顧みることはなかった。
罪、それは醜いこと。彼は人並みに苦しみ、人並みに絶望し、人並みに腐った。
そう思いたかったし、そう思っていたのだが、いったい彼の境遇に置かれて正気を保つことの出来る人間がどれほどいるだろう。
ある心地の良い曇りの日、彼は正装―おなじみの黒地のシャツ、彼曰く「一番正視に堪える誤魔化し」―でもって往来に出た。散歩というか、非情な現実に対する小さな反抗として。
一番人通りの多い通りの、一番華美な若者どもがたむろする辺りで、彼は耐えきれずに発狂する。嗚呼!やめろ!こっちを見るな!見ないでくれ!
胸が苦しい!息が詰まる!そうだ!眼を瞑れ!見るな!何でこんな惨めなんだ!私が何をしたっていうのだ!
そう思いながら、憎むべきアグリウスは小柄な少女にぶつかった。
少女は醜き敗者を見上げると、内緒話でもするかのように囁いた。
「お兄さんは、孤独なの?」
アグリウスは醜く自嘲して嘯いた。
「いいや、私なんか、ただの我儘な凡人だよ」
刹那、アグリウスは昏倒し、二度と眼を開くことはなかった。

 

憎むべき醜人アグリウスは、薄明かりの照らす教会の祭壇に眼を覚ました。

教会の―本来ならば尊きキリストが架けられて居る―本尊には、両手を掲げて全身の筋肉を緊張させたような、額の高い老いたる聖人の像が架けてあった。痩せ細り、ほとんど骨格が浮き出たようなその像は、しかし非常な充実をその厳格な表情に湛えている。
アグリウスは祭壇から起き上がり、その像を正視した。
「お兄さん、ここに居たんですね」
聖堂の出口からそんな声が聞こえ、振り返るとそこに居るのは先刻の少女。
背後の暗闇は、安寧を湛えて横たわっている。
「私は一体どうしてしまったんだい」
「お兄さんは『みるにたえないこどくなくず』なんだって。だから私のおじいさまが、ぜひとも会いたいって言うのです」
「ははは。そうだね、私はそんなふうに見えるのか。しかし、こんな奴が『孤独』なんて自称して良いのかな。世の中には、立派な孤独者がわんさか居る」
「お兄さんは、確かに『孤高』ではないけれど、十分『孤独』ではあるんじゃないのですか。私はまだ子供だから、そんなむつかしいことはよく知らないけれど」
「そうかい。うん。ええと、じゃあ、キミのおじいさまはどこに居るんだい」
「せっかちですね。それとも話慣れていないだけ?まあいいです。行きますか。暗いから、気をつけてくださいね」

 

憎むべき醜人アグリウスは、蝋燭の照らす回廊にあって、軽快に歩く少女の後ろを心許なく付いていく。
鉄で組まれた螺旋を降りて、両側に広がるのは永遠とも思える鉄格子の通り。
少女は懐中電灯でもって、牢獄を一つ一つ照らしながら、鼻歌交じりに歩いて行く。
憎むべき醜人アグリウスは、その眼でまじまじと覗き込む。
牢獄に蹲るは美しき者ども。
皆一様に美形で、健全な体躯、服飾は輝かしく、およそ責めるべきところのない、哀れな囚人たちである。
「彼ら、何か悪いことでもしたのかい」
少女は笑って呟いた。
「『彼らは笑っていた』のですって。そうだ、この人たちに、何かしたいことはある?」
アグリウスは考え込む。
「そうだな、せっかくだ。顔に杭でも打てばいい」
少女はケタケタ笑って言った。
「ひゃあ。こわい」

 

憎むべき醜人アグリウスは、冷たく静かな暗闇を、少女とともに下っていった。
降りるは原初のエレベーター。心地のよろしい駆動音が、静かな闇を慰める。
スイッチに手が届かない少女に手を貸したりしながら、降りるは城の渡り廊下。
吊られた橋の両側に、石造りの個室が並ぶ。
憎むべき醜人アグリウスは、その眼でまじまじと覗き込む。
寂しい個室に蹲るのは皆灰色の、人間どもだ。
皆一様に凡庸で、醜くなければ美しくもない。
「今度は一体、どんな奴らなのかな」
少女は笑って呟いた。
「『彼らは眺めていた』のですって。そうだ、この人たちに、何かしたいことはある?」
アグリウスは、考え込む。
「そうだな、眺めるのは悪いことだ。眼に釘でも打てばいい」
少女はケタケタ笑って言った。
「ひゃあ。こわい」

 

憎むべき醜人アグリウスは、星の瞬く城郭を、少女とともに歩いて行った。
時たま少女が星を指すので、アグリウスは微笑んでそれに応じた。
「お兄さん、ここからは静かにしてくださいね。おじいさまのお友達が、大変な仕事をしているのだから。おじいさま、怒るととても、怖いのよ」
重く古びた木戸は、少女の独力では開けられず、二人でえっちら押し開けた。
眼前に広がるのは、広大な安寧の渦。
てかてかと磨かれた巨大な瓶が、数え切れぬほど吊り下がり、いくつか黒く濁ったものが、最下の渦に、消えてゆく。
憎むべき醜人アグリウスは、その眼でまじまじと覗き込む。
「ああ、こいつは、たしかに見るに堪えないね」
醜人アグリウスは見た。ひどくなじみ深い、醜さの塊を。
かつての自分が嫌悪し、「こうなりたくない」と強烈に、絶望的に念じながら、それに与した醜き敗者。
醜人。
うんざりする中途半端、憐れむべき欲望、純粋な欲望、願う姿すら救いのない、憎むべき局外者たち。
「これはまるで、私じゃないか」
沈んだ表情を浮かべながらも、醜人アグリウスはただじっとそれらを直視していた。
醜人たちは皆一様に天上を求めて硬直している。
「彼らは何を、しているんだい」
少女は笑って呟いた。
「『彼らは耐えて、死んだ』のですって。そうだ、この人たちに、何かしたいことはある?」
アグリウスは即答した。
彼らを直視しながら、即答した。
「せめて、見れるようにしてやってくれ」
少女はケタケタ笑って言った。
「そうですね。いずれ、来たるべき時には」

 

さあさあ醜人アグリウス。少女に手を引かれて、辿りつくのは最奥の海。
黒く静かに凪を湛える果て無き海を、醜人アグリウスは眼を細めて眺望する。
「どう?きれい?」
「いいや、ぜんぜん。しかし、そもそも世界は醜いし、美しいものがすべてじゃない。もっとも『現実』じゃあ、そうはいかないんだろうが」
少女は無邪気に石を投げた。
石はとぷんと海に消えた。
「おじいさまは、どこに居るんだい」
「ふふ。この中。この海の、一番底で、眠ってる」
「そうかい。じゃあ。行こうか」
少女は笑って呟いた。
「お兄さん、貴方は独りで行くんですよ」

我らが醜人アグリウスは、独り嗤って同意する。
「飛び込んだら、どうすればいいんだい。ずっと潜っていくのかな?」
「飛び込んだら、あとはそのまま。意志も意識も全部溶けて、貴方はただただ消えてゆくのよ」
尊き英雄アグリウスは、乾いた、否、爛れた嗤いで微笑み返し、意を決したらしかった。
いや、最初から、意を決していたのだった。
少女はケタケタ笑って言った。
「お兄さん、怖くはないの」
「いいや。意識の喪失なんて、願ってもいない刑罰だよ。ぼくらはみんな、そうなんだ」
そう言うと、聖人アグリウスは、たいへんな跳躍でもって、黒い、ひたすらに黒い海に消えた。


心地良い闇にあって、充実した筋肉のこわばりの後、全身がほどけていくのを彼は感じた。
アグリウスの人格が消失する刹那、彼が海の底に見たものを、知りうることの出来る人間など、いるはずもない。
強いて言うなら、それは一つの老いたる骨格であっただろう。
安寧のうちに蹲る、一つの救済。

 

 

おしまい。