原田のゴミタメ。

私が語ることは、すべて接頭に「私にとって」が与えられねばならない。我儘で、自分勝手で、醜く幼い私の誇大妄想。私的な論理の飛躍は決して万人に敷衍されてはならないが、万人が私の妄想を否定したとき、もはや私には生きる必要がないと思われる。せつに、そう思うのである。

私にとっての社会

ある人が嘆く。

「私は人生経験が貧しい」

「人生経験が豊富な人が羨ましい。不公平じゃないか」

ある人の知り合いは、ある人に交際経験があることを知って、嘆く。

「なんだなんだ。私は人を好きになったことすらないのに、貴方はそれでいて経験が貧しいなどと言うのか。充分恵まれているじゃないか。不公平だ」

 

おそらく、この人より浅い

(これは、この場合の知人のように、自己を他者と比較する人自身の主観での「浅い」である。本人がどれだけ自分が惨めだと嘆こうが、客観的に、より惨めな人を突き出されれば、それは主観を攻撃して、あたかもその嘆きが傲りや傲慢、我儘の類であるとの自己認識を半ば強制する)

人生経験を持つ人はごまんといる。

そして、その夥しい人々の存在は、

「我最底辺にあり」という、逆接的な誇りや安住を、不当な、他者への配慮を欠いた、許されないものであると、そしてそれが否定できない道徳に見えてしまうという、あの歯痒い自己否定に陥れる。

ここに於いて、社会にある人は、自己が不幸であると宣うことすら許されない。

幸福になれない人は、その不満を、苦しみを、吐き出すことすら許されず(あるいは吐き出したとしても、先程の夥しい人々の存在によって、その認識が不当であると思わざるを得なくなる)。ひたすら自己の内面に鬱々とした苦悩を抱えることを(それが社会に害を為さない点で)推奨する。

誰だって、自分が最も可哀想で、最も労ってもらう必要があると思っているのに。

全員(この全員は、本当の全員だ)が幸福になることはできないのに、不幸を嘆くことすら(他者配慮の)道徳によって禁じた、ひたすらに生半可で沸切らない、漠然としてしかし逃れようのない苦悩の只中にあることを強制するもの。

それが私にとっての社会である。

 

追記

 

対象がなんであれ、人が「怯え」ざるを得ない、あるいは現に「怯え」ている社会は、自然状態となんら変わりがない点で、すでに崩壊している。