原田のゴミタメ。

私が語ることは、すべて接頭に「私にとって」が与えられねばならない。我儘で、自分勝手で、醜く幼い私の誇大妄想。私的な論理の飛躍は決して万人に敷衍されてはならないが、万人が私の妄想を否定したとき、もはや私には生きる必要がないと思われる。せつに、そう思うのである。

メモ

ショーペンハウアー的「意志」による人間関係。

「強い自我」の存在は、他人の否定と直結する。

意志の客観化は、無理に数量化するならば有限である(?)。

(この点は、荀子の思想に関連するのかもしれない。すなわち、この世に存在する「幸福」は有限であり、各人は持ちうる「徳」に応じた「幸福」量に満足せねばならない)

強い個性、強い自我、強い存在は、他人において発現する「意志」の客体の否定(強奪)であり、ショーペンハウアー的「道徳」はこの点に根拠を持つように思われる。

曲解するならば、存在は、他者の否定を根拠に持つ。