原田のゴミタメ。

私が語ることは、すべて接頭に「私にとって」が与えられねばならない。我儘で、自分勝手で、醜く幼い私の誇大妄想。私的な論理の飛躍は決して万人に敷衍されてはならないが、万人が私の妄想を否定したとき、もはや私には生きる必要がないと思われる。せつに、そう思うのである。

梅原猛著「地獄の思想」を読み終えたので、考えたことなどを書いておく、素人の薄っぺらい感想であり、言うまでもなく価値はない。きっと的外れなものである。そもそもこんな風に逃げ口上をグダグダと並べている時点で、内容は推して知るべしというものである。こんちきしょー。

 

私が特に熱心に読んだのは、第十章「修羅の道を超えて」である。

ここで筆者は、宮沢賢治の作品や人生についての考察を通して、筆者の主張する「日本思想史・宗教史を貫く仏教的地獄観」が、賢治の場合はいかにしてあれわれていたかを明らかにしようとしている。

私が特に気を惹かれたのは、主題であるべき「地獄観」というよりは、梅原の記す(梅原の解釈による)賢治の宇宙観である。(往々にして、私は著作物の主題よりはそのうちの与太話に過ぎないようなものに気を取られる。無能である。死ね)

当時日本に流入した西洋思想は、自然と人間、あるいは精神と肉体等の二項対立が主であった。つまりは、自然=人間によって観測される物質的化学的事象、という認識である。これに対し、賢治(梅原は、賢治が仏教信者であったことに触れている)は「人間は宇宙を貫く大生命の現れ/大生命の流れ・意識の一つの窓」にすぎぬという。

ここで私が思い浮かべたのが、ドイツの哲学者ショーペンハウアーの思想である(私を知る人ならばくどいほど聞いたであろう表現である。これは原田がこの哲学者にかぶれているためである。盲信しているのである。馬鹿だ。幼稚だ。死ぬべきだ。死ね)。

彼の思想は、「この世界は、生きんとする盲目的な意志の表象の総体であり、人間を含む、認識を営むありとあらゆるものはこの盲目的な意志の表れにすぎない」といったものである。この主張を足掛かりに、彼は、「我々が、この底知れぬ意志(=生きんとする意志・欲望)そのものであるならば、この世界は、根源を等しくする様々な意志が互いにせめぎあいながら実現を渇望するのであるから、そこには常に争いが生じ、苦悩に満ちたものになるという。これが俗にいう最悪主義、ペシミズム(=この世界は考え得る限りで最悪のものである)である。

既にわかる通り、賢治とアルツール、この両者に見られ思想の共通点は、「世界の奥底には途方もなく大きな存在(概念?)があり、人間はその断片にすぎない」という考えである。

これが仏教の元来持つ世界観であるかどうかはよくわからない。

個人的には、輪廻転生やらなにやらの概念が渦巻く自然・宇宙のただなかにあるチッポケな存在として人間を見る(これも個人の妄想であるが)仏教の世界観に近いとは思うのだけれど。

一応、賢治もアルツールも、仏教に少なからずゆかりがある人物(賢治の場合は信者であり、アルツールの場合は当時ヨーロッパに輸入された仏教にある程度共感し、自身の哲学の終章に仏教における「諦念」の概念を置いている)ではあるが、両者の思想の一致がこの仏教由来のものであるかもよくわからない(アルツールの場合、先の思想形態が仏教という概念に触れる前に形成された可能性もある)。要するに何もわからないのである。

私が言いたいのはただ「賢治の宇宙観とアルツールの宇宙観ってにてるよねー」ってだけである。くどい。当然ながら、異論は認める。

 

個人的に、この「地獄の思想」は、(残念なことに私の(そもそも存在しない)表現力では明確に表すことはできないが)いろいろと得るものがあったように思う。文体もなぜだかそこまで疲れるものではなく非常に読みやすかった。何度か読み返してみたい(こう言って積書に埋もれて久しい本がどれだけあるか)。

 

もう一つ、個人的経験として、受験期に参考書の中で本書の切り抜かれた一説に出会ったことがあったのを読んでいて思い出した。前半部の、ペシミズムを「野蛮の礼賛」と表現している箇所なのだが、当時ペシミズムにかぶれていた私は、この一節だけを読んで「なにをっ」とムキになり、たいして調べもせずに「梅原猛キライ」になったものである。今読むと、筆者は、文脈的にはその切り抜かれた一節と真逆の考えを持っていることが分かった。いやはや、切り抜きは恐ろしい。避けるべきである。おまえのことだぞ、「現代文キーワード読解(Z会出版)(母校配布)」。燃やしてやる。

はい、死にます。

さよなら。