原田のゴミタメ。

私が語ることは、すべて接頭に「私にとって」が与えられねばならない。我儘で、自分勝手で、醜く幼い私の誇大妄想。私的な論理の飛躍は決して万人に敷衍されてはならないが、万人が私の妄想を否定したとき、もはや私には生きる必要がないと思われる。せつに、そう思うのである。

世間が言うところの「彼女たち」と、「私」の違いは何か。

 

一つの決定的な差として、

「彼女たち」は

尊重されるべき、

守られるべき、

大切にされるべき、

大事にされるべき、

包まれるべき、

優しくされるべき、

どこかふわふわとしたもので、

デリケートで。

そんな存在であるのに対し、

 

「私」は

一切そんなことが許されない、

期待されない、

醜い、

一切の価値のない、

目障りな、

ゴミカスであるということ。

 

やれミソジニーミサンドリーだ。

フェミニズムだ権利向上だと「社会」は叫ぶが、

彼ら彼女らの活動は一切の個々の苦痛を度外視したものであること、

傷つくのは常に個であり、一切の苦痛は個と集団の関係から生じること。

すなわち、集団化した時点で個の地獄のような苦しみは切り捨てられている。

そして集団がやることといえば、もっぱら個を殺すことのみである。

 

集団をつくるには、まず差別がなくてはならない。

そしておよそ社会というものは集団からなる。

よって、差別は原理的に根絶不能だ。

 

集団が切り捨てゴミのように抑圧するところの膨大な、

溢れんばかりの醜人の怨念が、

いつしか津波となって、

一切の抑圧者を、集団を、社会を、

慈悲なく叩き潰すことを、

集団を構成する最後の一人まで余すところなく殺戮することを、

真に心から願う。