原田のゴミタメ。

私が語ることは、すべて接頭に「私にとって」が与えられねばならない。我儘で、自分勝手で、醜く幼い私の誇大妄想。私的な論理の飛躍は決して万人に敷衍されてはならないが、万人が私の妄想を否定したとき、もはや私には生きる必要がないと思われる。せつに、そう思うのである。

何故「悪」が責められ「善」が推奨されるのか。

「悪」が主に生物の基本的欲求に基づくものであり、「善」が往々にしてその否定なのだからではないか。

「善」に耐えている人は、そうでない自由人を僻み、中傷するのではないか。

「善」の徹底は、生の否定である。

これは仏教的だろうか。

わからない。