自分の意見ほど信用のおけないものは無い。
なぜなら、自分の意見、すなわち私の中から精製した意見というものは、生まれてからこれまでに蓄積したありとあらゆる偏見をはらんでいるためだ。
少なくとも、個人の発した意見でこの偏見を免れるものは皆無である。
誰もが偏見で物を語る。
ゆえに、自分の考えが正しいと盲信し、それを世界の真理として広く敷衍しようという行為ほどくだらないものはないだろう。
議論が必要だ。
他人の偏見と己の偏見を突き合わせることで、自分の意見の偏りは軽減される。
議論には同じような意見の人物を交えるべきではない。
似た意見の集合は、要らぬ団結を生み、よりいびつな偏見を生む。
そして大抵、排他的になる。
個人レベルでの盲信や排他はよい。
それは個人の創作であり、精神的安寧の拠り所となる。
しかしそれを敷衍する際は用心が必要である。
出版物としての発表ならば大いに結構である。
少なくともこの資本主義社会においては、消費者には選ぶ権利があるからだ。
この仕組みの上では、その出版者は内容が及ぼす影響について、いかなる責任も負う必要はない。そのような責任の強制は多様な思想の発現の阻害となる害悪である。
そのような仕組みがある上で、特定の出版物やジャンルを指して「けしからん」と喚くのは愚鈍の極みである。そのような人間は惨殺されるべきだ。
少なくともそのような盲信的人種に人権を認めてはならない。
一方で、教育など、半ば強制的な説の教授には非常な責任が伴う。
語られる一字一句が生徒の人格を形成し、偏見の糧となるためだ。
ゆえに、「教師」は生徒の人生の責任を負うものとしての重い責任が課せられ、その任命には何より厳格な選考と不断のフィードバックの仕組みが必須であろう。
話を戻そう。
偏見の軽減のためには、対立する意見の一対一の議論が必要である。
双方に、第三者からの肩入れがあってはならない。
どちらも正しいとして、あるいは、どちらも間違っているとしたうえでの、遠慮のない徹底的な議論が求められる。
この具体的方法としては「批判」がある。
批判と否定は全くの別物である。
批判は偏見や盲信が生む難点の修正を図る不断の手法であり、否定は盲信を助長する醜く野蛮な喚きである。
ゆえに、広く意見や思想を敷衍したいならば徹底的な議論を介する必要がある。
また、上記に記した思想は、徹底的に個人の偏見に根差したものであり、議論を経たものではないため、盲信は禁物である。