原田のゴミタメ。

私が語ることは、すべて接頭に「私にとって」が与えられねばならない。我儘で、自分勝手で、醜く幼い私の誇大妄想。私的な論理の飛躍は決して万人に敷衍されてはならないが、万人が私の妄想を否定したとき、もはや私には生きる必要がないと思われる。せつに、そう思うのである。

真摯で愚直な自己紹介

今日は自分の醜さについて語る。おそらくは罵詈雑言の嵐になると思われる。

しかし、ここは「読むのは自己責任」と銘打っている場所であるので、どんな内容でも気にすることはなかろう。

 

私の汚点。

汚点と言えば何であろう、おそらくはこの醜い卑屈さか。しかしこれは個人的には必要なことだと思っている。なぜならば、これは私の先天的な楽観主義、一種の出しゃばり、圧倒的な思慮の無さを鑑みてのことだからである。意識しなければ、私は楽観する。「後ででいいや」「どうにかなるでしょ」「大丈夫大丈夫」馬鹿だ。しかも恐ろしいことにこれらのおぞましい思考は、卑屈を装っても未だ消えない。病気のようなものである。もっとひどいのは「出しゃばり」だ。高校時代の友人たちとの会話、講義での討論等々、ちょっとした言葉のやり取りであってもすぐにでしゃばる。ろくに考えもしないものを思いつくままにぶちまける。そうして、場の空気をぶち壊す。気遣いが足りない、思慮に欠ける、うざい、思い上がり、知ったかぶり。でしゃばっているときの私はこれらの概念が塊になっているのと同義である。しかもこれらのきちがいのような所業を生まれ持った醜い鼻声でやらかすのである。ただでさえ醜い鼻声を、どもりながら、早口で、滑舌悪く、訛りながらやるのである。こんなもの、白痴としゃべる方がましである。醜さの権化、忌むべき公害のようなものである。これをされる友人たちが気の毒である。しかも不幸なるかな、彼らが想像もできない不快を味わっている可能性を、前述の愚行をやらかしているまさにその時は、自分自身で認識できないのである。後になって襲い掛かる激しい後悔と自己嫌悪。きっとこれは、私の愚行の罰に違いない。だから私は、自分を責める。悪いことをしたのだから、当然だ。話がそれるが、私は自分に対する暴力は正当だと考える。抑えきれないほどの自己嫌悪等からくる憤りを、やむなく発散するとき、人にあたるのが愚の骨頂であることは言うまでもない。そんなことの実行は社会悪であり、後々の自己嫌悪が増大するだけである。次に、物にあたる。これも不合理である。自分の物にあたるならまだしも(不利益をこうむるのは自分自身であり、罰として解釈できる)、公共の場でものにあたるのは結局は自己の不満を外に発散しているわけで、人に迷惑をかけている。源泉が自分自身であるものを、他人に押し付けるべきではない。そこで自己に対する暴力である。これはよい。その行為が「罰」として自分自身で認識できているのだから、その行為による不満がたまるでもない。不利益をこうむるのも、すべて自分である。素晴らしい自己完結。ただしこれは、公共の場で行うべきではない。自己に対する暴力は、客観的にみて甚だ醜い。(そもそもこのような行為に走るものは、総じて醜い)醜いものは人を不快にする。その行為がヒトに不快感を与えるならば、文句を言われても反論できまい。だから自己に対する暴力は隠れてするべきだ。見せびらかすのはもってのほかである。リストカット等、見せびらかすための自己暴力は己に対する「罰」としての本分を大きく逸脱するものであり、愚行である。(そもそも、自己暴力に走る人間は、総じて愚かであるが)また、生活に支障が出るほどの物も考え物である。山奥に隠れ住む仙人ならまだしも、屑のような社会集団の中で生活する場合、不具者は周囲に迷惑をかける。自発的にそのような状況に陥るのは馬鹿である。同じ理由で明らかな外傷を伴うものもいけない。これは、周囲に要らぬ詮索と不快感を与えるものだからである。死ぬのはよい。飛び降りや、首つり等、周りに迷惑をかけるものでなければ。その場合、死ぬことをにおわせてはいけない。徹底した自己「罰」ということを忘れてはならない。残された人の気持ち?そのようなものは考える必要はないだろう。そもそも自己「罰」を実行するほど周囲に害を与えていることを自覚できているならば、己のことを気にかける人物にもすでに害を与えていることは明白であり、その害不快を取り除くのだから、責められようはずもない。最も、私には死ぬ勇気はないが。上記の要件を満たした自己罰についてはその実行に関していかなる文句も不合理であり、責められるいわれはない。正当なものである。自分の体は、たとえどんなに醜いものであろうと、絶対的に自分自身に帰属するのであるのだから。閑話休題。とにかく私は、何も意識しなければ、上記の醜い愚行をしでかす。意識的に卑屈になってもやってしまうのだから救いようがない。私の存在は徹底的に害である。醜い。

容姿の醜さは言うまでもない。左右非対称な目元と、大きく膨れた鼻、頭部が大きく首の太い歪なシルエットは忌むべきものだ。本来まっとうな人間であれば、それを補う服飾のセンスを持ち合わせているべきなのであろう。しかし私にはそれらがとんとわからない。幼少期から、「友人と街で遊ぶ」という機会がほとんどなかった(高校時代は、これまでの人生で一番そういった機会があったけれど、それは部活帰りの図書館と、そこに併設されたショッピングモールでの駄弁りであったので、基本ジャージであった)私に、「オシャレ」という概念は存在しない。一ミリも。結果、自分が「無難」と考えるものを身に着けるしかないのだが、このような歪んだ愚者の考える「無難」などどうせ醜いものに決まっている。周囲の視線はこのような醜い容姿に注がれるものであろう。そして、この「周囲の視線を過剰に気にする」というのも汚点の一つであろう。私の場合は、実際の周囲の感想を自己評とする、というよりは、「周囲がこのように考えているだろう」という自己の妄想を、そのまま自己評とする。というものである。だから、基本周囲の目線はすべて自分に対する軽蔑と嘲笑であり、常にこのような妄執にとらわれているのだから、実際に否定された時の衝撃たるや想像に絶するものがある。これまで幸いにも「妄想」であったものが、否定しがたい「現実」となるのである。これほど恐ろしいことがあろうか。だから、普段の私の行動は、常に周囲の反感を気にしてのものである。結果言動の一つ一つが歪なものになる。しかし、このような主観的な「気遣い」も、前述の醜さや、思慮の欠落によって限りなく無駄なものなのだろう。事実、幼少期は公共の場、親戚の前での己の愚行をよく父にたしなめられたものである。出来損ないの屑であるのだから、反論の資格はない。またまた話がそれるが、私は、人にものを教えてもらうということが不得手である。もちろん教えてもらうのはありがたいし、事実教えを請わなければ理解できない無能であるのだから、時たま躓きを解消してくれる友人には感謝してもしきれない。しかし、私は物を教えてもらうとき、すなわち、人と対するとき、当然相手に失礼の無いように、言動の一挙手一投足に注意を払う。当然である。油断すれば前述の悪癖によって相手を不快にさせてしまうのだ。ただでさえ醜い鼻声でもって不快感を与えてしまっているというのに。しかし、不幸なるかな、私は救いようない低能である。ゆえに、このような言動に対して意識を集中させねばならないがゆえに、せっかく教えてもらっている内容の理解がおろそかになってしまう。典型的な本末転倒である。このせいで、最終的には相手に対し失礼な結果に終わるのである。これだから、人に質問するという行為を自主的に行うことを避けてしまう。結果無能に磨きがかかる。そもそもこの先天的な無能が諸悪の根源である。無能であるゆえに思慮に欠ける、覚えが悪い、他人がからすれば常識的にこなせるものにつまずいたり、気になってしまう。なんという愚かさ、醜さだろう。このように、他人の言動に対する機智を持ち合わせないゆえに、人と対することが苦手である。それはそうだ、一歩間違えれば、限りない自己嫌悪を味わうばかりか、何より他人に不快感を与えるのである。結果嫌われ、足蹴にされ、孤立する。きっと生涯孤独であるのだ。このような妄想が四六時中付け回る。孤独を礼賛する格言を、盲信することができない。きっと、彼らは孤独を知らないのだ。私がこのような人付き合いに関する諸行について感じるのは不安などという甘いものではない。もはや恐怖である。ちょっとした間違いで、取り返しのつかない地獄に陥るという恐怖、自己の醜さ、無能さをまざまざと見せつけられる恐怖、このような愚かな自己批判に終始する恐怖。こんな時、私は周囲を認識する技能を持たない白痴に憧れる。終始自己の世界に閉じこもれる幸福、それを社会的に認められる幸福。死ねばいいのに。このような己の救いようのない醜さが、私の汚点である。

次は、汚点というよりは僻みである。醜い僻み。

高校時代、スマホ・ゲームや話題のアニメ等について熱く語る友人たちの会話に入ることができなかった。当然である。知らないのだから。当時の私の携帯端末はゲーム等のできるスペックではなかったし、私の生家ではなんとなく深夜帯のアニメ等の視聴がはばかられた。いや、ゲームにしてもそうだ。小さいころから、周りがはやりのゲームに熱中するさまが楽しそうで、親にねだったりしたのだが、なかなか認めてもらうことができなかった。やっと手にした時には、「ゲーム=隠れてする、本来よくないもの」という古く、忌むべき認識がこびりついてしまった。アニメ・漫画等についても同様である。非道徳的な、良くないもの。己の評価を損なうもの。このような古い、糾弾されるべき思考。だからかもしれない。実際、友人たちの会話には、断片的には、私の知るものがあった。しかし、私はそこに飛びつくことができなかった。前述の思考と、これまでの人生で培われた「キャラクター」が足を引っ張ったのだ。その場では、私はただ曖昧にニコニコするだけの道化であった。ひたすらに、寂しく、羨ましかった。

だから、私は道徳・倫理を恨む。己の「キャラ」なるものに縛られねばならぬ世間という醜い屑の総体を、その総体にとらわれる己の思考を激しく憎む。ここまで私を苦しめたありとあらゆる道徳・倫理は、徹底的に破壊されるべきである。諸悪の根源たる道徳・美徳、そして忌むべき「世間体」、このような醜い鎖が私の青春を貧相なものにした。私はすべての責任をこれらに転嫁する。何度でも言おう、「世間体」や道徳、そしてそれを礼賛する正義等は、直ちにその座を引きずり降ろされ、八つ裂きにされねばならない。あのような、盲信的な、曖昧な、かつての私のように「平和的」な笑みをたたえる屑を、無能を、汚れた鎖を、徹底的に叩き潰し、引き裂き、骨も残さず排除せねばならない、「こうしたい・ああしたい」という若人の純粋な欲求の発露を阻む白痴の総体を即刻、破砕せねばならない。私は生涯、盲信的な道徳を憎むだろう。倫理学は、それらを解剖し、本来存在しない神聖不可侵さを根絶するための道具である。哲学は、盲信し安住する愚者を根絶するための道具である。この世に存在するすべての道徳は、あらゆる不幸の根源である。死ねカス。

 

おわりに。

最後あたりで罵詈雑言を吐いたらすっきりしたので今日はここまでにします。

大学という、せっかく自由になれる場所に来たのだから、これからは今までに経験できなかったあれこれを積極的に、貪欲に求めていこう

しかし人付き合いは難しいですね、私は馬鹿で無能で醜いのですから。