原田のゴミタメ。

私が語ることは、すべて接頭に「私にとって」が与えられねばならない。我儘で、自分勝手で、醜く幼い私の誇大妄想。私的な論理の飛躍は決して万人に敷衍されてはならないが、万人が私の妄想を否定したとき、もはや私には生きる必要がないと思われる。せつに、そう思うのである。

呪われた個人——消極的差別主義者の素描——

 

私はここに、ある個人のありようを記述したい。

すなわちそれは「消極的差別主義者」とでもいうべき個人の在り方だ。

それは、反差別の嵐がかつてないほどに吹き荒れる現代にあって、確実に存在し(少なくとも1人いる)、苦悩しているであろう存在についての、ささやかな紹介である。

まず初めに、「消極的差別主義」という拙い造語の意図するところについて説明の機会をいただきたい。おそらく「差別主義」という言葉自体はまだ完全に狩られてはいないだろうから、これに「消極的」なる接頭辞をつけたところで警察沙汰にはなるまい。

尤も、「主義」というのはいささかミスリーディングであるかもしれない。なぜならこれは信条ではなく、心情の問題なのだから。というのはすなわち、「消極的差別主義」とは、ある自我を持った個人が覚える端的な嫌悪、不快、気持ち悪さの別名に他ならないということだ。

一体この世には哀れな人種が存在するものだ。すなわち両手を広げて「この世すべての人間が望むとおりに生きられればいい」と願い、また個々の日常的な事例、すなわち隣人・道ですれ違う老若男女に配慮と気遣いを示し、個別的な理不尽には心からの共感を示しながら、その一方で、醜いものには醜いと嫌悪を抱き、特定の対象に己の不快を感じ、しかしそうした所感が社会的公平を外れるもの、つまりは端的に差別感情であると自覚している人間が。

彼は人前でその所感を表明しない。少なくとも日常において、それを意図的に公表することをしない。なぜなら、彼はそれが「倫理」に反するものだと知っているからだ。彼は自分の内に抱く所感が世間で糾弾されるところの差別そのものであることを自覚している。厳密にはそうでなくとも、少なくともそれを「正しいもの」として主張することに無理があることを知っている。

彼は、「自分が自分であることの倫理的な問題」を自覚している。彼が社会で生きる限り、絶えずその倫理が「自分が自分であること」を責め立てるであろうと自覚している。ゆえに彼は一層その所感を隠し、自分が自分であることにおびえ、あるいはそれが嫌悪や不快、果ては憎悪を募らせる。

彼は一体どうすればよいのであろう。倫理の講義を受け、どれだけ相槌を打ってみたとしても、まさにその倫理が自分を指差す世界で。個々の差別的事例がどれだけ理不尽であるかを理解していながら、全体としての反差別運動が自分にその矛先を向ける世界で。彼は差別が良くないことだと知っている。自分の望むように生きたい人がいて、しかしそれが不当に抑圧されるとしたら、それは全く許しがたいことだ。自分にそれが起こると考えるだけで怖気がする。しかしながら、反差別の言説・理念・健全性に触れるたび、彼は「自分が自分であること」を否定されているような気持に陥るのだ。ゆえに彼は、差別が当事者にとって理不尽この上ないことを知りながら、知っているからこそ、反差別の運動に不快と嫌悪を覚えるのである。

このように、反差別の命題に触れて疎外感を覚えるとしたら、少なくとも彼は何らかの形で自分のアイデンティティに差別的なものを含んでいるに違いない。しかし彼は彼の日常において差別を働こうとしているわけではないし、それがどれだけ「自己を殺す」行為だとしても、少なくとも彼は社会的には「公平」であろうと心がけている。「心」がけてはいないのかもしれないが、しかし形式上不公平がないように努めている。だとすれば、彼を「消極的差別主義者」と呼ぶことに異論はないであろう。彼は全く差別的なアイデンティティを持っていて、そして自己が否定されることに苦しみを覚えるからには、全く自己を愛しているのだ。当然である。彼が全く自己を愛していないのであれば、つまり彼が「自分が自分であることの必要性」を感じていないのであれば、彼は容易に自己を捨てたであろうから。社会が要求するすべての「べき(ought to)」を満たした果てに、いつか愛したかもしれない「自分」というものを完全に殺して葬ることができたであろうから。

消極的差別主義者は、だから反差別の現代にあっては裁かれることのない罪人である。この「罪人」とは、他者からの定義ではなく、消極的差別主義者が全く自然に自己に対して抱く所感だ。本当のところは、彼は自分を愛しており、全く自罰的に自身を「罪人」と思っているのではないのかもしれないが、いかんせん人間とは環境の中にあって自我を形成する生き物であるから、社会が「差別」を「絶対悪」と定義する限り、少なくとも彼は「罪人」であることを強いられているというわけだ。つまりここでいう哀れな人種・「消極的差別主義者」は、まさに「自分が自分であること」にやましさを覚えることを強要されているのである。彼はこの事態を糾弾しているのであろうか? 否。彼は内心では反差別運動をして「すべての『個人』に対する差別的弾圧である」と確信しているのかもしれないが、それは全く「消極的差別主義者」に固有の所感に過ぎない。そして哀れなことに、彼は自己を愛しながら自己にやましさを感じているため、その所感を「自分のありよう」以上の公共領域に拡大することができないし、しないのだ。その「自分のありよう」すらも、否定にさらされてしまっているわけだが。

彼は社会において自分が自分であることを自覚したその瞬間から一つの嫉妬、あるいは羨望に駆られている。すなわちそれは、反差別運動の旗手たちへの羨望だ。例のごとく、彼は「消極的差別主義者」たる自分のありようをこの上なく愛しているため、たとえ「差別の何が悪いのか」を理解したところで自分が自分であることをやめないのであるが、だからこそ、「自分が自分であること」の存亡の危機に絶えずさらされている彼は、羨まずにはいられないのである。すなわち、運動の旗手を。自分の信奉する信念、自分が望む「自己の在り方」が時代の正しさに合致した人々のことを。そうであろう? 自分が心から正しいと思い、またそれが自分のアイデンティティになっていることがらについて、時代が、潮流が、たとえ形式だけだとしても社会が、それを「正しい」と是認してくれることほど恵まれたことはない。もちろん、彼らからすれば「恵まれた」というのは冒涜であり、そこにはもしかすると葛藤や奮闘が多分に含まれているのかもしれないが、しかしそうだとすれば果たしてそうした信念がアイデンティティに、つまりは「自分が自分であること」の全面的な肯定に結びつくのであろうか。もし運動の旗手たちが何らかの転向を経ているのだとすれば、それは転向の前後で全く意識の断絶があるほどに一度「自己を殺して」しまったか、それとも、もともと運動に親和性のあるアイデンティティを持ち合わせていて、単に運動の内容を(自己を根本から変革することなく)理解し咀嚼しただけかの、どちらかに一つであろう。

こういうわけで、消極的差別主義者からすれば、反差別の運動の旗手たちは圧倒的に後者にしか見えないのである(前者だとしても、そうであるならズタズタに引き裂かれた自己の持ち主に羨望など抱かないであろう。消極的差別主義者が反差別運動の旗手に羨望を抱くのは、彼らが全く「自分が自分であること」を謳歌しながら、時代がそれを肯定しているからにほからない。)これはただの僻みであろうか。もちろんただの僻みである。しかし当たり前の僻みである。ある価値観、気質のもとに生まれて、あるいは育って、そして後から価値観Aを持ち合わせたものは無条件に「自分が自分であること」を許容され、しかし価値観Bを持ち合わせてしまった者は無条件に「自分が自分であること」にやましさを植え付けられるとするなら、そしてほかならぬAによってその原因がアイデンティティの問題に絡めて指弾されるなら、これ以上の理不尽はないだろう。

ある価値観、ある気質に生まれてしまったものは、それだけで「自分が自分であること」を否定されるのだ。こういうことをもって、件の消極的差別主義者は「反差別はすべての『個人』に対する差別的弾圧である」と呻くのだ。子供たちに挨拶を返し、老人に席を譲り、隣人の被差別に痛めるのと同じ心をもってして。

 

これは理性の理想、つまりは全くの絵空事に過ぎないが、少なくとも私は「この世すべての人間が望むように生きられる世界」を希求している。尤も、その人間には「私」が含まれていなければ意味がない。非常に罪深いことに、私もまた、消極的差別主義者であるからだ。

日記 21/11/10

私はこれから馬鹿げた話をする。

日常で感じたふとした不安を、たまたま目に入ったネットニュースと混交させて、陰謀論じみた被害妄想じみた疑問の表明を行い、個人的な信条を記述する。

これはきっと、私が思う以上に人の好むものではないのだろう。なぜなら私は子供じみていて、なにより倫理や道徳が嫌いであるからだ。

私は世間知らずであるのだからよくは知らないが、きっと健全な人間とは、倫理を愛し、冒涜的話題に憤ることのできる道徳的な人たちなのだろうから。

 

私は倫理学の講義をとっている。もともと哲学に関心があるというのもあるが、これまでの歴史の中で、また今まさに議論されている倫理的な話題、議論、論理などを知らずに、単に「倫理は嫌いだ」と叫ぶことの幼稚さから脱したいというのもあるかもしれない。この辺りはよくわからない。やっぱり、単に哲学的な議論にわくわくするというだけのことかもしれない。何かが嫌いだと叫ぶことは幼稚でも、そもそもすべての始まりはそうした好き嫌いといった幼稚な、気取って言えば「原始的な」ところから始まるとも思っている。

 

私が今とっているのは、倫理学でも、特にメタ倫理という話題を扱う講義である。すなわち,倫理的価値観そのものにとどまらず、倫理・道徳の背景や、その存在自体を問うていく学問ということになる。講義はとても楽しい。ある考えられた倫理学説が登場したかと思うと、たちどころに反論、批判が唱えられ、そしてまた次の説明が組み上げられる。およそ倫理というものに、およそ道徳というものに、少なくともこれまでは何ら「絶対」などありえなかったのだということを体感できるのは、俗ながら小気味よい。

 

しかし違和感を覚えることがある。というのも、このようなメタ倫理の講義にあって、議論の方向はなぜか「妥当な倫理学説」を模索するほうに向かっていくからだ。一度、倫理的相対主義が議論に上がったことがあった。すなわち,あらゆる倫理観は相対的でしかなく、そもそも万人に絶対的な倫理を組むこと自体が不可能だという主張である。私はそれを大変説得力のあるものだと思っていたのだが、しかしこの説は「パラドクスを含む」「問いかけに応じておらず、不誠実だ」ということで、あっさり棄却されてしまった。もちろん、講義として相対主義ばかりを扱うというのはシラバスからして偏りになるし、こうして書くと乱暴に見える棄却だって、次の倫理学説へのつなぎとして至極妥当なものであるのだろう。単に私の頭が悪いというだけの話かもしれない。しかし、メタ倫理と銘打たれておきながら、何か絶対的な倫理があるかのように、倫理が無化されてしまわないように進んでいくこの事実に違和感を覚えたというのも、また私にとっての事実であるのだ。まあどうでもよい。私は道徳が嫌いだ。

 

話を戻そう。倫理の講義には、よく極限的な事例が登場する。すなわち,友人を殺人犯からかくまう羽目になった市民とか、乗客を救うために一人の通行人を轢かねばならなくなった運転手などが登場する。受講者である我々は、こうした事例を題材にして、倫理とは何かと唸るわけである。

次のような問いがある。「多様性が推奨される社会において、多様性に反対する市民を包摂することは矛盾なのではないか」「差別に反対しておきながら、差別主義者を否定するのは矛盾なのではないか」

我々はこれを極限事例だと考える。すなわち、例えば鮮烈なナチズム的思想を掲げる「差別主義者・優生主義者」が壇上にいて、多様性に配慮された社会を困惑させているような、そうした図像を想起する。

しかしながら、本当にそうなのだろうか。確かに、極限事例の多くは、日常的な部品をまとっていながら、多くの人が一生に一度体験するかしないかといったものだ。個人的には、より日常的な題材でも同じ説明は可能だと思うのだけど、そうした例(例えばカレーを食べる「べき」か食べる「べき」でないかといった例)が人々を「深刻な」倫理的ジレンマに導く好例となるのかは判断がつかない。しかし極限事例であっても、そこに登場する人物たちは、まさに講義を受けている我々自身であるはずだと、本来そうなのだと、思うのである。

端的に言えば、我々はまさにその倫理的問いによって、踏み絵のようなものを迫られているのかもしれないと、思うのである。

 

「差別主義者」の問いについて考えてみる。「多様性を揺るがす差別主義者」という存在が立てられたとき、我々は、何か積極的に差別を働く人間を想起するのではないだろうか。それこそ見るに堪えない悪人、野蛮人のような。

しかし冷静になってみれば、この「差別主義者」とは、まったくそのような悪人の姿をしていないのである。なぜなら、この「差別主義者」「多様性反対者」というのは、まさに日常に生きる我々に他ならないのであるから。

倫理的非難がやり玉に挙げる悪人とは、何ら空想上の存在ではない。何か絶対悪のように糾弾される属性は、それこそ学校の友人、挨拶を返してくれるご老人、駅員、街を行き交う人々がみな当然のように持っている価値観なのだ。

これに関して、例えば「本を焼く」事例を挙げてみよう。何ら空想上の話ではない、呪うべき社会で現実に起こっている現象だ。すなわち、古典的な作品が、現代の価値観に合わないとして棄却されていく現象である。

古典的な作品が「差別表現を含む」として燃やされるとき、我々の多くはそれに眉を顰め、作品や作者を擁護するだろう。「時代の価値観を反映した作品を、のちの価値観で裁くのは理不尽だ」と反論するだろう。

しかし倫理感に執心する人々、差別撤廃主義者たちから見れば、こうした反応自体が、「差別」に存在の余地を残す差別主義者のふるまいであるのだ。

これは至極当たり前のことである。正義感からか、倫理観からか、とにかくある A を断固として憎み、悪しき A を根絶しようとする人がいれば、A の存在自体を抹消してしまおうと考えるのは自然であろう。そういう人たちにとっては、A をかばい、A に存在の余地を残そうとするすべての人間が敵対者に見えるだろう。

彼らはまさに「疑わしきは罰する」の状態にある。差別撤廃主義者から見れば、判断を留保する人間すら差別主義者に他ならない。絶対悪があり、その断罪に躊躇する人間があれば、そいつは悪魔に他ならないというわけだ。一つの真理、一つの正義を断固として主張する人間にとって、相対主義善悪二元論と変わらない。

だから我々は、あらゆる倫理的問いかけと、仮定的結論に、疑いを向けなければならない。カントはどんずまりの懐疑論を「批判」をもって乗り越え、実践に光明を開いたが、その実践が誰かを何かを害するのならば、懐疑の渦のほうがましである。これは「実践は害をもたらしうる」という、想起されたヒステリックな可能性の話ではなく、現実に実害として起こっている事柄についての話なのだ。

実践が道徳に基づく正当なものであるのなら、なぜおよそ「人間」と目されている人たちの中に「被害者」が生まれるというのだ? 「区別」が妥当であるというのなら、なぜその「差別」ではない「区別」によって、望むあり方を歪められる人間が存在する?

 

「多様性を認めない人たちをどう扱うべきだろう?」と倫理が、道徳が、社会が問いかけてくるとき、人はまさに自分が倫理の側にいると思って、椅子にでも腰掛けながら「ふむ」と考えるだろう。しかし問われているのはまさに彼自身の信条であり、彼は踏み絵を迫られているのだ。判断一つで、彼は容易に「悪人」に分類される。不道徳的な社会であればそうではないだろうが、きっとどこまでも倫理的・道徳的な社会ではそうである。結局のところ、道徳とはさまざまに「悪人」を定義する仕組みでしかないのだと、そう思っている。

だから規範的な倫理、絶対性をわずかでも希求する倫理は、日常的な人間、人間らしい人間にとっての害毒なのだ。理論ならまだしも、実践として、運動として立ち現れ、現実の隅々までを真理で満たそうとする道徳は、何よりも躊躇なく暴力的になるだろう。

多くの本が焼かれる。しかし本を焼くのは「悪人」ではなく、そこではまさに「悪人が」焼かれているのである。

 

それはきっと、私なのだろう。

 

 

卑屈な自己認識

 

あらゆる穿った見解、呪詛的否定、風刺と皮肉は、それらが自身になんらかの絶対的な正当性を見出し始めたあたりから、単なる(というよりは厄介な、対話不可能な)陰謀論に堕していく。

 

およそ徹底的でない人間、自身の信仰を極限まで実践することのできない人間、完璧でない人間、つまり人間らしい人間。

そういった人間の主張は、あらゆる意味において、およそ「正当」ではありえない。呪詛や憎悪、殺意や卑屈が、少なくとも至極妥当な所感でありながら、社会規範としては破滅的であるように、もろもろの個人的倫理、自己中心的宇宙観は、自己認識を忘れたとたんに肥大を始める。肥大する自己はそれ自体なんら悪ではないが、自己認識を忘れた自己の肥大は他者を巻き込む陰謀論に堕していく。そしてそれは、見るに堪えないものだ。

 

少なくとも私にとっての平沢進は、もはやそのようなものになってしまった。2010年代後半まではまだ「私は与太話でできている人間ですから」という自己認識、自己被虐があったわけだが、今になってはそれも見る影がない。

 

 

あらゆる主張、正義、信念は、そうした自己被虐を失った途端に胡散臭くなり、狂信的になり、見るに堪えなくなる。「建前」的であることを認めない倫理は、カント的ムーンレイカーに他ならないし、反証と自己批判を受け入れない急進的態度は、ラディカル・フェミニズム、もとい陰謀論にほからない。すなわち、自己と自己に賛同するもの以外の存在をおよそ「人間」とは見做さない立場に他ならない。

 

少なくとも自身が立脚する地点が、どうしようもなく盲信にならざるを得ないという自己認識。これは失うべきではないだろう。現実で現実的に生きていくにあたり、人は前提なしには何もできず、盲信なしには呼吸すらままならない。懐疑的な人間にしたところで、その営みは盲信的足場を拠り所にした無限の下降であろう。

 

この意味では、かつて私の友人が言っていた、「科学も一つの信仰だ」という主張も理解できなくはない。なぜなら、突き詰めれば前提=盲信に行き着く営みとして、科学も例外ではないからだ。

 

あらゆることが盲信に基づく。

 

私は未熟な青二才であるわけだから、この卑屈な自己認識さえ共有していれば、異なる信仰の盲信者であっても対話くらいは可能ではないかと、そう楽観するのである。

 

 

意志の研究(断片①)—ある怪物の誕生—

 

これまで存在を規定していた「芯」のようなものがすっかり抜け落ちたような、あるいはたんてきに憑き物が落ちたような有様で、彼は窓際の席に腰掛けていた。

声をかけると、彼は力なく微笑んで、痩せ細った腕を振って私を席に誘った。

窓の外は昼間にかけてのひだまりがゆっくりと午後の静かなまどろみを帯びつつあり、それは穏やかな午後というのなら何よりも午後めいた雰囲気を作り出していた。

私が腰を下ろすと、彼は頬骨の浮き出た表情をこちらに向け、「はは」とため息のように破顔した。

 

「どうしたんだい?こんな時間に呼びつけるなんて」

 

「いや、悪いね。しかし、ぼくはもうどうして良いのかわからなくなってしまったんだ」

 

「いったい何があったんだ?」

 

これだよ、と言って彼は文書が包まれた封筒を投げてよこした。

 

「終わったのだ。ぼくの世界が。ぼくという在り方と、ぼくの愛する世界像が」

 

すなわち、意志の不在。

あるいは、意志の否定。

 

そこに記されていた内容は、人間の意志に関する認知科学的な研究成果であり、今に全世界に公表されるであろう「人間の意志」の幻想性を告発するものだった。つまるところ、我々の意識は我々の行動を規定しない。我々の意識は行動を引き起こすニューロンの発火と同時に生じるいわば副次的な現象であり、人間の全ての行動は、あるいは生物の全ての行動は、その意識が意志することによって生じるのではなく、意識と無関係に、意識の力の及ばぬところで一切生起するという「事実」であった。

 

「意志がすべてを規定する」「何よりも鮮烈な『私』が行動の指揮者である」

 

彼の世界、彼の在り方。

 

それは今や非科学的な幻想であり、数ある非現実的な「錯覚」の一つにカテゴライズされてしまったのである。

 

「もはやぼくはぼくではない。ぼくの依拠するものはすべてが嘘になってしまった。ぼくの愛する世界は、今や宗教上の図像になってしまった。世界の事実に目を背けて塗り固めねばならない、信仰の対象になってしまった」

 

発掘された木乃伊が物を語るとしたら、おそらくこんなであろう。彼は一言一言をかみしめるようにして言葉を発した。まるで今一言を紡ぎ出すたびに、自分がはっきりと崩れていくことを確かめるかのように。

 

「「ぼく」という物は存在しない。「ぼく」が何をしようと、それは「ぼく」が起こしたものではない。「ぼく」は「ぼく」によってはどうにもならずに展開する一切を、ただどうすることもできずに観測するだけだ。そして現実にあって、「ぼく」はその一切を受け止めねばならない。もはや受け止めるべき基盤などないのに、「ぼく」は薄氷よりも希薄になった「ぼく」でもってすべてを引き受けねばならない。そのうち「ぼく」は要らなくなるのだろう。そのうち「私」は不必要になる。「私」は副産物だ。主体ではない。主体?主体とはなんだ。もはや主体すら要らないのだ。人間の行動を規定する「主体」とは、今やどこにもないのだから。それは錯覚だ。それは嘘っぱちだ。いずれ意識は抹消される。今ここに居る「私」は、「君」は、いずれ消え失せてしまう。なぜなら必要ないからだ。「意識」がこのようであるならば、円滑な社会において「意識」は何処までも後退する。きっと意識が「私」を主張すること自体が悪徳に数えられる日が来るだろう。私が好きなもの、私が是とするもの、すべてが円滑な社会運営のために取り上げられて、後にはただただかつて「私」を夢想していた抜け殻が残るだろう。それはきっと「私」よりもうまく一切をこなすのだ。「私」が嫌うような笑みを浮かべて、「私」が嫌うような健全の和に加わって、「私」が嫌うような踊りを嬉々として踊るのだ。そこで喜んでいるものは誰なんだ?「私」ではあるまい。そこで笑うものは、そこでコミュニケートするものは、いったい誰なんだ?「私」でなければ誰なんだ?「私」は何処に行った?「私」はどうなる?今ここに居る「私」は、一体何なんだ。「ぼく」はどうすればいい……」

 

そう言うと、彼は力なくすべてをソファに委ね。ぼんやりと空を見上げるのだった。

 

「午後のひだまりが美しい。ぼくはこの時間が好きだ。何が好きかって、もちろんこの今の一瞬が心地良いから好きなんだが、何よりこの風景が好きなのだ。「ぼく」が居て、こうして腰掛に体重を委ね、本当なら安心してひだまりを浴びている。この情景が好きなんだ。「ぼく」が。そいつが何者かもわからない一個の「ぼく」がめくるめく世界を経験する。微笑ましい冒険譚だ。それは悲劇にも喜劇にもなる。「ぼく」がこうして安心して「ぼく」のうちに坐しているからこそ、物語が展開される。それは平凡であるかもしれない。それは波乱万丈であるかもしれない。平凡であるならぼくは惨めな慟哭のうちにすべてを愉しみ、波乱万丈であるならぼくは焦燥とスリルに身を焦がしながらすべてを愉しむだろう。愉しいのだ。「ぼく」が居る世界は。そこは愉快な理不尽と心躍る苦闘に満ち満ちている。「私」を中心とした快不快の価値観が姿を変えて一切を判断するディストピアだ。考えるだけでワクワクする。心が躍る。「私」が踊る。それはきっと素晴らしい……。けれど、けれど全部嘘になってしまった。全部幻想に、全部嘘八百になってしまった。もはやかつての現実は馬鹿げた戯言になってしまった。ああ——」

 

彼は嗤いながらこちらを見た。それは今の今まで想像していた素晴らしい世界に心ときめき、しかし夢の佳境で覚めてしまったかのような虚脱感に包まれた表情だった。

 

そう、夢。

 

彼の愛する世界は徹底的に「夢」と定義されてしまった。ありうべきもの、ついさっきまであり得たもの、ついさっきまでその手に握り、愛でていた現実が、世界中の真理によって「夢」と規定されてしまった。彼は馬鹿ではない。少なくとも彼は愚かではない。人が見れば惨めなムーンレイカーにしか見えないだろうが、しかし彼は少なくとも何が正しくて何が正しくないのかの判断がつくほどには賢しかった。今、彼はもがいているのだ。崩れかかった塔の上で、まさにつかみかけた月にめがけて手を伸ばしながら。夢が夢だと気づいた瞬間、事態は一気に急転する。あるところまで傾いた船が、もう転覆するほかないように、そこに至ってしまったなら、もう覚めるしかない。どれだけしがみつこうとも、どれだけ戻ろうとも。

 

彼にはそれが痛いほどわかっていた。彼にはそれが逃れようのないことだとわかっていた。だからこそ、どうして良いか分らないのだ。目覚める先に、覚えがないから。

 

彼は愚かであればよかった。彼は真に狂っていればよかった。彼は——

 

「白痴」

 

「ん?」

 

私がふと発した単語に、かれの眉が反応した。縋るような眼をこちらに向けた彼に、私は繰り返した。

 

「君は白痴であればよかった」

 

「何を……。いまさらのように……」

 

「いや、いや、そうとも限らない。君に限った話じゃない。あっは。人は皆そうかもしれないんだ」

「盲信的であることが白痴なら、それがどうして悪いことだろうか。君は科学者だ。ぼくはそれを知っている。君は「事実」の探究者だ。だがしかし、君は「規範」の探究者ではない」

「事実から「べき」は出てこない。事実がこうであるからと言って、だからこうしろというのも考えてみればおかしい話だ。科学は「少なくともこうなっている」を提示する。しかし、「そうしなければならない」は科学の領分ではない。いいか。人間の心?私?それらが嘘だって?っは!だからどうした。それが何か問題かね?幻想を馬鹿にするなよ。人が見る仮象は、人が見る錯覚は、現実をスッポリくるんじまうほどに強大なんだぜ。それは賢人の手にも負えない怪物だ。かつてカントは、その怪物を退治するために馬鹿みたいに長い言説を紡ぎ出した。だが怪物は死ななかった。あっは!そいつはのうのうと生き延びて、挙句の果てには身の毛もよだつ戦争をすら何べんも引き起こして見せたのだ。人はそれを意味と言う。人はそれを価値と言う。言うならば、人が現実に見出すすべてがめくるめく夢であるのだ。いいかね。君の言う現実の次元にあったって、人は化合物の塊だ。死ぬまでには何べんも眠らなければならない。毎晩毎夜、夢を見なければならない。夢を見ることのどこが悪い?夢想することの、あるいは信仰することの、何が悪い?」

 

「しかし……しかし……」

 

「信仰ったっておかしい話だ。現実に意味を見出している時点でもはやそれは信仰だろう。ないものを在ると言っているのだから。それも苦も無くそうしている。そしてそれは何ら悪ではない。価値を見出すことが悪である筈がない。そもそも悪とはなんだ?いいか、これから我々が直面する世界にあっては、善悪すら夢に過ぎない!人が善と悪の見方をする限り、夢は終わらず、意識は終わらない。人は皆白痴となり、進んで幻想の中に没入するのだ。我々がどう生きるかなど、それこそ白痴の領域だ。人は事実に学び現実を素材として、めくるめく幻想の世界を構築し、そこに安らぎ、そこに棲むのだ。この人間という奇妙な生き物は、夢に棲み、現実を営む。幻想を棲家とし、夢想した世界を作ろうと努力し、争い、社会をなす。こいつは不思議だ!これこそ今我々の目の前にある世界そのものではないか!」

 

「……はは。SFにおける上位存在のようだ」

 

ラヴクラフトを引くまでもないし、SFに限った話でもない。思えば偉大な哲学者というのは、皆そんな方策をとっているのだ。幻想。幻想。我々はハナから幻想を拠り所とする化け物なのだよ。そして君の憩うひだまりの午後もまた、幻想であるがゆえに人間にとってどこまでも現実的な、君の愛する世界として変わらずあり続けるだろう」

 

「そうであることを知りながら、あるいは、そうでないことを知りながら、噓八百の世界に生きる存在……。君はそれを白痴というのだな」

 

「盲信者でもいいがね。そしてそれらの語彙は、善悪とは何のかかわりもないのだ。善悪すらも、道徳を好む連中が憩う夢でしかない。それを好むか好まないかは、君という夢想体のお気に召すままさ。

意識や主体が無意味だというのなら、我々が営むすべてが無意味なのさ。なぜなら我々は世界に意味を見出す。意味と言うのはまさに意識が世界を見るための道具であるわけで、意味なしには世界は拝めない。覚める必要なんざないんだ。夢から全く覚めてしまったら、もうそこには世界はないのだから。もがけ。もがけ。夜が単に穏やかであるものか。幻想の世界を豊かにし、そこから世界を眺めるのだ。鮮烈な生き方は何も変わらない。白痴という、化け物じみた、しかし当たり前の在り方を受け入れたなら——」

 

「いや——、」

 

私が勢い込んで拳を突き上げかけたところで、彼はそれを制した。そこには、生気を失った木乃伊ではない、かつての夢想家としての彼が居た。彼は穏やかな、しかし「意志」が光る眼を取り戻し、胸の高鳴りが収まらないとでもいうかのように沸き立つ笑みを浮かべて、コーヒーを一気に飲み干した。

 

「うふふ。そいつは良い。結構だ。噓八百に生きる白痴。心が躍る物語だよ。しかし社会はどうなる。ぼくが恐れる健全な社会というのは、どうもそうした幻想論に不純を見出しそうなものだが」

 

「構うものか。それこそ世界大戦だ。標榜する善悪を拠り所とする夢想体と、剝き出しの快苦と拠り所とする夢想体の一心不乱の闘争さ。素晴らしいじゃないか」

 

「さしずめぼくらは社会における「悪者」というわけだね。古い「意志」の在り方にこだわり、馬鹿げた幻想を豊穣にする。真理を認めて実践せず、嘘を纏って鮮烈に回る……」

 

「おお呪わしき白痴。おお憎むべき白痴よ。ってね。そしてそれすら一切が茶番に過ぎないのだ。そして、全く持ってそれでよい。我々は人生をかけた寸劇に参加しているのだよ」

 

「憎しみや呪詛すらも、今や絶対的な悪ではないわけだからね……」

 

「当たり前だ。人間の化学反応的な認知機構をつまびらかにし、すべての意味を幻想と見なすことは、絶対的な判断基準を打ち消してしまうことに他ならない。そこにあっては、「善悪」などもはや見せかけのレッテルに過ぎないのだ。道徳的世界観という夢に住まう人々が目障りな意味に貼り付ける、それこそ幻想のラベルだよ。彼らの、そして我々の世界観にあって我々が鮮烈に生きるということは、それこそ「悪徳の栄え」に他ならないのだ。そしてそれは何ら絶対的に「悪い」ことではないのだ。なあ君、「白痴」よ。きっと鮮烈に生きようじゃないか。醜く野蛮に惨めたらしく、人間らしく生きようじゃないか」

 

そうして我々は、夏の午後のひだまりが、夕刻の、あのこの世ならざる実に不可思議な色彩を帯びるまで、延々と駄弁ったのであった。

 

思えば、意志という存在は、まさにあの時に生まれたのかもしれない。現実の地位を蹴落とされた憐れな神が、さながら亡霊の如く現代の不安定に顔を除かせるように、あの日彼の眼に宿った意志。自身を噓八百と自覚した何よりも鮮烈なあの意志は、自身の化物性を自覚したあの意志、あの怪物は、まさに自身の非現実性を指摘されたあの19○×年の夏にこそ、何よりも鮮烈な産声を上げ得たのかもしれない——。

 

こうなってしまったらもうどうにもならないこと。

 

「昨日、非常に恐ろしい映画を観たんだ。銃を乱射する人間が突然現れて、周りの人間は悲鳴を挙げながら逃げ惑う。幾人かは物陰に隠れて一時的に難を逃れるのだけど、逃げ遅れた人や隠れ損ねた人が、命乞いをしながら撃ち殺されていく様を目撃するんだ」

 

「それを観て、私は非常な、どうにもならない恐怖に震えながら思ったんだ。『こうなってしまったらどうにもならない』って。私がいま、この場面に常ならぬ恐怖を抱いているまさにそのことが、『こうなってしまったらどうにもならない』ことの禍々しい現実感を思い起こさせているんだ、って。私たちの日常とやらは、鬱陶しい取り決めや目障りな倫理・道徳であふれている。けれども、これらのどれもがこの『こうなってしまったらどうにもならない』ことへの恐怖から組み上げられている事柄で、『こうなってしまったらどうにもならない』ことが起こらないように、毎時毎秒、世界に私たちに、けなげにも自己暗示と祈りを捧げ続けているんだ。暴力は本当にどうしようもない。そこにあっては、弱い人間がけなげにも積み上げた理性だの知性だの感性だのと言ったおためごかしは木っ端みじんに吹っ飛んでしまう。それこそ、どれだけ熱烈に言葉を並べて懇願しても、最後には一発の銃撃で頭を撃ち抜かれる犠牲者のように」

 

「そいつは本当に恐ろしいことだ。そうならないように一所懸命に考えなくちゃ。一所懸命に祈らなくちゃと思ったのだけど、そこではたと思い至ってしまうんだ。銃撃を放つ側はどう思っているのだろう。広場で、学校で、交差点で、銃を乱射する人間は、つまり『こうなってしまったらどうにもならない』ことをまさに実行する人間は、一体何を思っているのだろう。私はそれこそ懸命に思い込もうとした。『そいつは気狂いの野蛮人だ』と確信しようとした。けれども、ダメなんだ。銃を用意し、直前まで気が付かれないように移動し、まさに引き金を引く直前まで、その社会が正常に機能する中に組み込まれている。あそこで『こうなってしまったらどうにもならない』ことを担っているのは、まさにそんな人間なんだ。ちょっとした駆け引き、それと思想。およそ人間が培ってきた事柄が無ければ、あの『こうなってしまったらどうにもならない』ことは起こりえないんだ。あれは大猿が大木を振り回しているのとは違うんだ。命乞いをしている人間が、まさに言葉の通じる相手に撃ち殺されるんだ。あれは野蛮ではない。あれは狂気ではない。あれは人間が汗水たらしてけなげにも積み上げてきた事柄の、一つの帰結なんだ。そう思ったとき、私はもうどうして良いか分らなくなってしまった。私たちはもうここまで来てしまった。いつ、どこで、誰が『こうなってしまったらどうにもならない』ことをぶっ放しても不思議じゃない。彼の動機も、彼の道具も、まさに社会にちりばめられている。SF小説なんて書かなくても、私たちはもう脅迫されている。誰が殺し、誰が生き残るかの場におかれてしまっている。冷静な取り決めなんて気休めに過ぎない。暫定的であることは、事態から目を背けていることに他ならない。ああ、私は馬鹿であればよかった。私は白痴であればよかった。何も認識せず、ずっと笑っていられる存在でいたかった。こうなってしまったら、もうどうにもならないんだ」

 

 

「おお、おお。わかったから、今すぐそのナイフをしまえよ」

 

 

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少なくとも、「日常」と呼ばれるものを営んでいる限り、いかに悲観主義者を装ったとしても、その本質はどうしようもない楽観主義である。

そしてそれは何ら悪いことではない。こうなってしまったらもうどうにもならない限りは。

 

教室棟の手記—自己を肥大させましょう—

自己とはそもそも肥大化するものではないかしら?

 

肥大する自己はしょっちゅう惨めな病理と見なされるけれど、我々が生きる「日常」なるものはそもそもそうした「肥大化した自己」なしには成り立ちえないのではないか。

 

「自己」が幻想であるという話はとりあえず置いておくとしよう。そもそも幻想か現実かだなんてどうでもいい話だ。幻想だったらダメなのかい?いったい誰が「ダメ」を宣言する権利をもっているんだい?

 

で、だ。

 

我々が腰を落ち着ける現実の日常をなす風景は、個々人の肥大化した自己なしにはありえないように思われるのだ。

「日常」とは何か。他者を見る苦しみ、他者に依る苦しみ。誰もが不快な奴を見て気分を害し、それを誹謗し中傷し、あるいは「強い」人を見て劣等感に駆られ、焦り呪いながら勤勉する。そうした一種愛おしい「日常」をなすものは何か。それこそが、鮮烈な自己である。

 

人が人に惹かれるのは人が人だからであろう。自己のない人間なんて存在するものか。ある人の鮮烈な自己が「私」にも分かるように現前して初めて、「私」は相手を不快に思い、あるいは焦がれ、嫉妬する。

これは「私」自身でも同じことだ。「私」がどこまでも膨らんで、相手の領域にも重なっていき、その重複部分で軋轢や信頼が生まれる。自己が重なって初めて人間の、我々の「日常」が始まる。そのためにはまず、自己は肥大しなければならない。

 

もちろん自己と自己が重なり生じる軋轢は不快なものだ。それは鬱陶しく呪わしい。しかし、呪わしいことが果たして「悪い」ことなのか?いいや。そんなことは断じてない。

不快とは、呪いとは、生物体に生じる全く健全な応答であり、その帰結が問題になるとしても、それ自体が禁忌になり得る訳がない。そんなことがあるとしたら、人間の否定だ。生物の否定だ。

 

不快は行為を引き起こす。呪いは情念を引き起こす。情念は人に夢を見せ、人は熱にうかされたように行動する。

何かに焦がれ、縋りつき、めくるめく「日常」コントラストが生まれる。喧騒が聞こえ、どよめきと子供たちの罵声が飛び交う。沈黙もその中で際立つ。

 

仮に自己が「肥大しない」世界を考えてみよう。

そこでは誰もが均等に整列し、統制的で、見栄えが良い。

小綺麗で「健全」な、分別の良い人間がものわかりのよい笑顔で「コミュニケーション」する。

わお。素晴らしい。

 

けれども、それは少なくとも今我々の周りに在る「日常」ではない。自己の「肥大しない」世界で誰が下卑た嗤いをこぼすだろう?誰が酔っ払って猥談を叫ぶだろう?誰が駅のホームに飛び込むだろう?誰がいじめられて死ぬだろう?

 

汚らわしく醜いものの吹き溜まりこそが我々の「日常」だ。それはきっと有史以来変わらない感想であっただろう。あるだろう。豊かになった人間が何に執心するかといえば快楽の増幅であり、それは自己の肥大と同義だろう。

 

こんな「日常」はお嫌いかい?

嘘だね。

我々が執着するものこそそうした「日常」だ。

静寂を好む所感すら、喧騒の醜さなしにはありえない。言うまでもなく、我々が盲信して安住し、後ろめたく笑う場こそがこの「日常」に他ならないのだ。愛するというならば、我々はそうした「日常」を心底愛している。

 

そうした「日常」をはぐくむのが「自己の肥大」だ。

それが幻想でも構わない。いったい、意味づけられたものはすべて幻想なのだから。

「自己」というものが膨らんでぶつかり合い、擦れて腫れて噴出した膿が「日常」なる苗床の肥料になる。

 

さっきみたように、自己の「肥大しない」世界とは全く「日常」的でない何かだ。皆が小綺麗な区画、細胞に閉じこもっているようなものだ。いや、細胞ですら手をつなぐ。それは小綺麗な素晴らしい独房だ。人はそこで生まれそこで死ぬ。完結したプロセスにおいては呪詛も何も生まれない。そんなものはつまらない。

 

だからこそ、我々は不快なほどに自己を「肥大」させなければならない。なに、難しいことではない。自分が満足いくように着飾ってすら他人を不快にできる。簡単なことだ。つまるところ我々はただ生きればい。遮二無二に、顧みず、鮮烈に。

 

さあ、自己を肥大させましょう。

 

 

ある凡庸な書簡(所感)

 

これは先程の議論に対するぼくの考えだ。

 

もっとも、きみがきみの価値観・前提に従ってものごとを判断する限り、おそらくは未熟者の屁理屈としか映らないと思う。だから、見るに堪えないのなら、悲しいことだが、以降無視していただいて構わない。

ただ、いまこうして返答、もといぼくの考えていることを整理しようとしているこの性格は、尊敬すべきひとたちから受け継いだ財産だと思ってる。だから一つ落ち着いて、こうして文章化しているという訳なんだ。また、そういえばいつだったか、ぼくの浅薄な意見表明について、きみはそれを一蹴して取りつく島もなかった。そのとききみは「馬鹿も馬鹿なりに沈思黙考したらどうだ」と嗤ったね。

そういう意味では、ぼくは教わった教訓をもとにして、いま、先程の対話を落ち着いて整理しようとしているのだ。

つまりこれは、一つの誠意なんだよ。きみには馬鹿げた、無益な、くだらない、意味のない、子供じみた駄々にしか映らないとしても、少なくとも今、ぼくは誠実に文章を練ってるのだ。

すくなくとも、そのつもりだ。

この行為が、「世間において」まるきり無意味であるなら、本当に不甲斐ないことだが、また叱ってくれたまえ。そうすれば、ぼくはいたく傷つき、また何ごとかを学ぶだろう。

 

 

さて、話の発端はぼくの対人関係についてだった。

きみは、(おそらく)「好きな人はいるのか」という趣旨のことを尋ねた。それに対して、ぼくは常々思うところがあったので、「好きな人」を「恋愛感情をもっている人」と解して、「恋愛至上主義は素晴らしい価値観だけれど、人の在り方は何もそれでだけではない」と返したんだ。

思えばこれは質問の答えになっていない。それについてはぼくが悪かった。

ごめんなさい。

ついで、ぼくは私見を述べようとした。しかし双方譲らず、また冒頭の言い方が決定的に誤解を招くものであったために、ただみっともない罵声が大きくなるばかりで、核心部に達する前にうやむやになってしまった。だから、まずここに、ぼくが言わんしたところを記したいと思う。

 

 

第一に、「恋愛しているかどうかを判断基準にするのは危険である」こと。

これはつまり「好きな人はいるのか」を「恋愛をしているのか/する気があるのか」と解してのことだ。もちろん「好きだ」と思う人がいるのなら、ぼくはそれなりの努力をして、結果はどうあれ、恋愛に邁進するだろう。ただ、現在のぼくには、「好きだ」と思えるような人がいないんだ。おそらくきみなら、そこから「それは積極的に機会を得ようとしないからだ」とつづけて、それはぼくの怠惰によるものだと諭すだろう。

もちろん、勤勉か怠惰かでいえば、ぼくは怠惰なほうだ。これについて異論はみとめない。しかし、「『好きな人を作るための機会』を積極的に求めないために、好きな人がいない」というのは、いけないことなのだろうか。責められるべき過ちなのだろうか。さらに言うなら、よしんばそうした努力を怠って、かつ「俺には恋人がいない」と自嘲するとしても、だ。それはいけないことか?確かに見ていて不快ではあろうが、それは正当なのか…。

現在ぼくは、「勉強したいと思ったことを勉強する」ということに喜びを見出してるんだ。そこにおいて、積極的に「好きな人を作るための行為」に精を出す必要が感じられないんだ。しかし、きみの言い方によるなら「好きな人がいないこと」はすぐさま怠惰に結びつくのだ。それは、野球に一生懸命になっている人に「サッカーをしていない」と注意するようなものだ。「好きな人がいない/積極的に作ろうとしていない」とういう現状に何か過失を見出すのは、恋愛ではない別のことに打ち込んでいる人の頑張りを馬鹿にすることと同じだ。同じように、「好きな人がいないような人間/人生は惨めでつまらないものだ」という考えも、それ以外のことに楽しみと充実を見出している人を馬鹿にしている。

またきみなら、「なにか機会があれば、そういった人は自然にできる」と考えるのかもしれない。しかし、その考えは危険であると思うよ。なぜなら、その考えは、そうでない人(機会に恵まれていて、かつ好意を持つ相手ができない人)を「間違っている」と言っていることと同じだからだ。「間違っている」とまではいかなくても、「自然でない」と言っていることにはなるだろう。当然ながら、これは個人への人格否定だ。そう考えるだけならまだしも、それをもとに相手に何かを諭すことはほとんど暴力だ。

「相手が間違っている」と口に出して伝えることは、それが正しかろうと、相手を傷つける暴力性を伴っていることを、ぼくも含めて、自覚するべきなんだ。

もちろん、「それをしてはいけない」と言っているのではないよ。暴力性を伴うとしても、間違っている状態を正そうとすることはよいことだ。素晴らしいことだ。しかし、例えば、ただ繰り返し繰り返し間違いを指摘し続ければ、相手の心身は疲弊し、また深く傷つくだろうことは想像がつくはずだ。だからこそ然るべき配慮、自動車の運転でいう「みんなへの思いやり」が必要になるんだ。こればかりは、たとえ「世間はそういうものだ」と言われても引き下がらないぞ。そうだというなら、その「世間」は徹底的に間違っている。それは正すべきものであり、個人が俯いて黙認すべきものではない…。いや、たとえ現実においてはそうせざるをえないものだとしても、内心で「それは間違っている」と考えること、個人間でそうした意見を表明しあうことなどは、決して馬鹿にされてよいものではないんだ。

 

 

さて次に、「アドバイスとしての『恋愛をしないとだめだ』は、大抵の場合、結果でなく、過程が重要である」こと。

ぼくがまず言いたかったのはこれなんだ。誤解を与える言い方のために、冒頭で散り散りになってしまったけれど、ぼくがあそこで本当に述べようとしたことは、次のことなんだ。

若年者へのアドバイスとして、「恋をせよ」「好きな人ができないのはつまらないことだ」というような、恋愛を推奨するようなものがある。あるだろう。おい。

で、なぜこのようなアドバイスが繰り返されるのかと考えたとき、結局のところ、そこで重要なのは「恋人ができる」という結果でなく、「恋人ができるように努力すること」なのではないか、というふうにぼくは考えるのだ。

結果として「恋人ができる」ためには、一体何が必要だろうか。

答えは、「わからない」だ。

相手によって、清潔な容姿——もちろんこれはたんなる一例であり、そうでない場合もある。先程の対話において、きみはひたすらに「そうでない!」「そうでない!」と繰り返したが、もちろんその通りなんだ。これは一例に過ぎない。だけれども、存在はするものなのだ——、誠実な態度、面白い趣味、ユーモアあふれる性格(これはぼくに欠けているものだ)、ひとあたりの良さ・やさしさなど、さまざまであり、総合的で、これらはけっして一つに定まらない。

だからこそ、人は暗中模索をするしかないのだ。そして、そうやって暗中模索するうちに、つまり「人にまともに相手にしてもらえるような努力」をするうちに、おそらくは、世間一般に「しっかりしている」と評される人間が生まれるのだ。生まれるのだろう。

つまり、「恋愛をしないとだめだ」「恋人をつくれ」といったアドバイスは、結果はともかく、最終的には「しっかりした人間」を生み出すわけだよ。ならば、こうしたアドバイスが再三繰り返されるのは、そうした「しっかりした人間」を生むという、一種の社会的な実益、あるいは「しっかりした人間になってほしい」という願いがあってのことだと思うのだ。

もちろん、それで「好きな人」もできるなら万々歳だろう。ただ、明らかなように、「好きな人」ができなくともそこに費やされた努力は無駄じゃあない。(あくまで一例としてだよ)「清潔な容姿」を得ようとさまざまに努力をした人は周りに好印象を与えるだろうし、「わかりやすい話し方」を得ようと努力した人はその力を他のことにも使えるだろう。

こういったことから、重要なのは結果でなく、その過程なのではないか、と考えたわけだ。

もちろん、だからといって「好きな人がいないこと/つくろうとしないこと」がなにか間違ったことになるわけじゃない。今述べたような努力は、別の目的(例えば、あの先生に認められたいとか。あるいはもっと個人的に、人間として立派になりたいとか)の下でもじゅうぶん必要なことだし、こうした目に見える目標(好きな人を作る/人に認められるなど)を掲げていなくても、人は何かを目指して、そのための努力をしているものだ。

それなのに、そのうちの一つ、例えば「好きな人を筆頭に、対人関係を充実させる」などを絶対的なものとして、あくまでそのための努力をしていないだけで、別のことには一生懸命になっている人間を、「怠惰だ」「無駄だ」「甘い」と諭すのは、ただの人格否定だよ。

百歩譲ってそれが正しい指摘だとしても、そのアドバイスは何かしら相手を否定する成分を含むものだということ、相手を少なからず傷つけるものだということを忘れるべきではないんだ。

 

 

最後に、結びとともに、いくつかの弁明を述べたいと思う。

まず、「(何も知らない)相手に対しては、好きか嫌いかの二つの感情しかない」というきみの前提について。

少なくともそれはきみの中では絶対的に正しいことなのだろうし、場合によっては真理でもありうることで、それゆえにきみ自身の価値観として尊重すべきものだ。

しかし、残念ながら世の中にはそう思っていない人が一定数いること、そしてそういった人たちの価値観も同じように尊重されるべきものであることを少しでも理解してほしいんだ。とくに、そういった人たち(そこにはぼくも含まれる…。)の意見や価値観を、「世間とはそういうものだ」という、反論を許さない現実を盾にして異端視し、矯正しようとすることは、おそらく卑怯なことだ。いや、卑怯だ。ぼくはそう思うのだ。

また、ぼくが「たとえ相手が人格的に嫌いであっても、そのひとが優れた知見をもっているなら、ぼくはその人を尊敬し、教えを乞う」と言ったとき、きみは「それは結局相手の知識を『好いている』ということだ」と返答した。たしかにこれは、「好いている」ことになるだろう。しかしそこでぼくが好いているのは「相手の学識」であって、「相手自身」ではない。たとえるなら、人の持っている金銭に執着するようなものだ。別に悪いことじゃないがね。さて、この状態を「人を好いている」といえるか…。

 

 

きみが「間違っている」「こうすべきだ」と思い、それを指摘するのは、人としてとして当然の行いであり、いまだ至らぬ愚かなるぼくから見るなら、それは非常にありがたいことになる。しかし、そのありがたい指摘であっても、それが過ちを突くものである以上、相手に痛みを与えるものであること、そしてその痛みは誰にとっても当たり前のことであり、我慢と沈黙を強制できるものでは決してないことを、我々は、理解することに努めるべきだ。

 

 

この拙い駄文を最後まで読んでくれることを祈って。

また、読んでくれたならば、感謝と尊敬を表して。

 

 

芦谷次郎

 

 

memomemo

この書簡には、おそらくなにか道徳的な観点—例えばそれは「暴力性」を、まさに告発するような言い方や、また「人格否定」を咎める点に見られる—がある。私はそれを必ずしも絶対的なものとは思わないのだけれど、しかし、こういった観点は人間の所感の中において何か一定の心地良さ、(誤解を恐れずに言えば)納得感を与えるようにも思われる。はて、これはいったいなにか。