私はここに、ある個人のありようを記述したい。
すなわちそれは「消極的差別主義者」とでもいうべき個人の在り方だ。
それは、反差別の嵐がかつてないほどに吹き荒れる現代にあって、確実に存在し(少なくとも1人いる)、苦悩しているであろう存在についての、ささやかな紹介である。
まず初めに、「消極的差別主義」という拙い造語の意図するところについて説明の機会をいただきたい。おそらく「差別主義」という言葉自体はまだ完全に狩られてはいないだろうから、これに「消極的」なる接頭辞をつけたところで警察沙汰にはなるまい。
尤も、「主義」というのはいささかミスリーディングであるかもしれない。なぜならこれは信条ではなく、心情の問題なのだから。というのはすなわち、「消極的差別主義」とは、ある自我を持った個人が覚える端的な嫌悪、不快、気持ち悪さの別名に他ならないということだ。
一体この世には哀れな人種が存在するものだ。すなわち両手を広げて「この世すべての人間が望むとおりに生きられればいい」と願い、また個々の日常的な事例、すなわち隣人・道ですれ違う老若男女に配慮と気遣いを示し、個別的な理不尽には心からの共感を示しながら、その一方で、醜いものには醜いと嫌悪を抱き、特定の対象に己の不快を感じ、しかしそうした所感が社会的公平を外れるもの、つまりは端的に差別感情であると自覚している人間が。
彼は人前でその所感を表明しない。少なくとも日常において、それを意図的に公表することをしない。なぜなら、彼はそれが「倫理」に反するものだと知っているからだ。彼は自分の内に抱く所感が世間で糾弾されるところの差別そのものであることを自覚している。厳密にはそうでなくとも、少なくともそれを「正しいもの」として主張することに無理があることを知っている。
彼は、「自分が自分であることの倫理的な問題」を自覚している。彼が社会で生きる限り、絶えずその倫理が「自分が自分であること」を責め立てるであろうと自覚している。ゆえに彼は一層その所感を隠し、自分が自分であることにおびえ、あるいはそれが嫌悪や不快、果ては憎悪を募らせる。
彼は一体どうすればよいのであろう。倫理の講義を受け、どれだけ相槌を打ってみたとしても、まさにその倫理が自分を指差す世界で。個々の差別的事例がどれだけ理不尽であるかを理解していながら、全体としての反差別運動が自分にその矛先を向ける世界で。彼は差別が良くないことだと知っている。自分の望むように生きたい人がいて、しかしそれが不当に抑圧されるとしたら、それは全く許しがたいことだ。自分にそれが起こると考えるだけで怖気がする。しかしながら、反差別の言説・理念・健全性に触れるたび、彼は「自分が自分であること」を否定されているような気持に陥るのだ。ゆえに彼は、差別が当事者にとって理不尽この上ないことを知りながら、知っているからこそ、反差別の運動に不快と嫌悪を覚えるのである。
このように、反差別の命題に触れて疎外感を覚えるとしたら、少なくとも彼は何らかの形で自分のアイデンティティに差別的なものを含んでいるに違いない。しかし彼は彼の日常において差別を働こうとしているわけではないし、それがどれだけ「自己を殺す」行為だとしても、少なくとも彼は社会的には「公平」であろうと心がけている。「心」がけてはいないのかもしれないが、しかし形式上不公平がないように努めている。だとすれば、彼を「消極的差別主義者」と呼ぶことに異論はないであろう。彼は全く差別的なアイデンティティを持っていて、そして自己が否定されることに苦しみを覚えるからには、全く自己を愛しているのだ。当然である。彼が全く自己を愛していないのであれば、つまり彼が「自分が自分であることの必要性」を感じていないのであれば、彼は容易に自己を捨てたであろうから。社会が要求するすべての「べき(ought to)」を満たした果てに、いつか愛したかもしれない「自分」というものを完全に殺して葬ることができたであろうから。
消極的差別主義者は、だから反差別の現代にあっては裁かれることのない罪人である。この「罪人」とは、他者からの定義ではなく、消極的差別主義者が全く自然に自己に対して抱く所感だ。本当のところは、彼は自分を愛しており、全く自罰的に自身を「罪人」と思っているのではないのかもしれないが、いかんせん人間とは環境の中にあって自我を形成する生き物であるから、社会が「差別」を「絶対悪」と定義する限り、少なくとも彼は「罪人」であることを強いられているというわけだ。つまりここでいう哀れな人種・「消極的差別主義者」は、まさに「自分が自分であること」にやましさを覚えることを強要されているのである。彼はこの事態を糾弾しているのであろうか? 否。彼は内心では反差別運動をして「すべての『個人』に対する差別的弾圧である」と確信しているのかもしれないが、それは全く「消極的差別主義者」に固有の所感に過ぎない。そして哀れなことに、彼は自己を愛しながら自己にやましさを感じているため、その所感を「自分のありよう」以上の公共領域に拡大することができないし、しないのだ。その「自分のありよう」すらも、否定にさらされてしまっているわけだが。
彼は社会において自分が自分であることを自覚したその瞬間から一つの嫉妬、あるいは羨望に駆られている。すなわちそれは、反差別運動の旗手たちへの羨望だ。例のごとく、彼は「消極的差別主義者」たる自分のありようをこの上なく愛しているため、たとえ「差別の何が悪いのか」を理解したところで自分が自分であることをやめないのであるが、だからこそ、「自分が自分であること」の存亡の危機に絶えずさらされている彼は、羨まずにはいられないのである。すなわち、運動の旗手を。自分の信奉する信念、自分が望む「自己の在り方」が時代の正しさに合致した人々のことを。そうであろう? 自分が心から正しいと思い、またそれが自分のアイデンティティになっていることがらについて、時代が、潮流が、たとえ形式だけだとしても社会が、それを「正しい」と是認してくれることほど恵まれたことはない。もちろん、彼らからすれば「恵まれた」というのは冒涜であり、そこにはもしかすると葛藤や奮闘が多分に含まれているのかもしれないが、しかしそうだとすれば果たしてそうした信念がアイデンティティに、つまりは「自分が自分であること」の全面的な肯定に結びつくのであろうか。もし運動の旗手たちが何らかの転向を経ているのだとすれば、それは転向の前後で全く意識の断絶があるほどに一度「自己を殺して」しまったか、それとも、もともと運動に親和性のあるアイデンティティを持ち合わせていて、単に運動の内容を(自己を根本から変革することなく)理解し咀嚼しただけかの、どちらかに一つであろう。
こういうわけで、消極的差別主義者からすれば、反差別の運動の旗手たちは圧倒的に後者にしか見えないのである(前者だとしても、そうであるならズタズタに引き裂かれた自己の持ち主に羨望など抱かないであろう。消極的差別主義者が反差別運動の旗手に羨望を抱くのは、彼らが全く「自分が自分であること」を謳歌しながら、時代がそれを肯定しているからにほからない。)これはただの僻みであろうか。もちろんただの僻みである。しかし当たり前の僻みである。ある価値観、気質のもとに生まれて、あるいは育って、そして後から価値観Aを持ち合わせたものは無条件に「自分が自分であること」を許容され、しかし価値観Bを持ち合わせてしまった者は無条件に「自分が自分であること」にやましさを植え付けられるとするなら、そしてほかならぬAによってその原因がアイデンティティの問題に絡めて指弾されるなら、これ以上の理不尽はないだろう。
ある価値観、ある気質に生まれてしまったものは、それだけで「自分が自分であること」を否定されるのだ。こういうことをもって、件の消極的差別主義者は「反差別はすべての『個人』に対する差別的弾圧である」と呻くのだ。子供たちに挨拶を返し、老人に席を譲り、隣人の被差別に痛めるのと同じ心をもってして。
これは理性の理想、つまりは全くの絵空事に過ぎないが、少なくとも私は「この世すべての人間が望むように生きられる世界」を希求している。尤も、その人間には「私」が含まれていなければ意味がない。非常に罪深いことに、私もまた、消極的差別主義者であるからだ。