原田のゴミタメ。

私が語ることは、すべて接頭に「私にとって」が与えられねばならない。我儘で、自分勝手で、醜く幼い私の誇大妄想。私的な論理の飛躍は決して万人に敷衍されてはならないが、万人が私の妄想を否定したとき、もはや私には生きる必要がないと思われる。せつに、そう思うのである。

日記。(1.28.20)

きょうは9じはんにおきました。

はやおきです。

とうけいのてすとにぎりぎりまにあって、とりあえずぜんぶうめました。

じしんがあったところがあとからまちがっているとわかったのはつらかた。

とうけいのしゅくだいをひとつだしわすれていたのでせんせいにおねがいしてすこしまってもらうことになりました。

もんだいをみたけれどとてもむずかしいです。

ひとりでできるでしょか。

つぎはどいつごのてすとをやりました。

まあまあでした。

あしたはとういつてすとをやるのでまたおべんきょうします。

いえにかえるとなんだかたのしくなってたくさんとびはねました。たのしかた。

ねむくなったのかな、きづいたらおふとんのなかにいました。どいつごのべんきょうをしなければならないのでねるのはあとまわし。

さいきんてつやはむのうのしるしだとかどりょくじまんはむのうのしるしだとかいうおはなしをよくききます。ぼくはむのうなのかもしれない。

でもてつやはいやです。

つかれるし、いやなことばかりがあたまのなかでぐるぐるまわるからです。

さいきんはむりにでもわらうようにしています。みんなもわらてるけど、ひとりでわらてるのはおかしくおもわれないかな。

でもわらてないといやなことばかりおもってしまうのでわらいます。

きもちわるいかもしれないけれどごめんなさい。

こうしていないとつらいのです。

きょうはたのしかた。

 

ねます。