原田のゴミタメ。

私が語ることは、すべて接頭に「私にとって」が与えられねばならない。我儘で、自分勝手で、醜く幼い私の誇大妄想。私的な論理の飛躍は決して万人に敷衍されてはならないが、万人が私の妄想を否定したとき、もはや私には生きる必要がないと思われる。せつに、そう思うのである。

HPラヴクラフト著「狂気の山脈にて」考察

 

本記事は、高校時代のメモをもとにした、HPラヴクラフト著「狂気の山脈にて」の考察をもとにした記事である。メモ全文を書き写したのち、現在の、及びメモに対する再考察を行う。

 

メモ

HPラヴクラフト著「狂気の山脈にて」にて語られる旧支配者と我々人類には、ある一致があるように感じる。

旧支配者は、遥か宇宙の彼方からまだ幼い地球に飛来し、当時の地球に高度な文明を築いた。その過程で使役、もしくは食料として現在の地球上の生命の原型を創造したと言われている。そしてその一環としてある特殊な存在=無定形の体を有し、高い知性と驚くほどの模倣性を備えた「ショゴス」を作り出した。

旧支配者の予想以上の模倣性、凶暴性を持つこの存在は最終的に創造主である旧支配者を滅ぼしてしまうのである。

私がこの物語と人類に見出した共通点は以下の通りだ。

1.旧支配者と人類、どちらもある生態系における進化の過程で生まれたものである。

2.どちらも文明を築き、その過程で他の生物を管理、使役する。

(3).どちらも、自らが創造主となる。

1については自明である。人類についてはダーウィンの進化論が示していることであるし、旧支配者についてもその長い歴史の中に肉体面、知性面での興隆期・衰退期があり、進化・退化に近い何らかの種的な変化により誕生したと言えるだろう。

2についても同様に確かだ。文明の定義がなんにせよ、旧支配者と人類が時こそ違えど同じ地球において同じような立ち位置にいるのは「狂気の山脈にて」を見ても自明である。

また、旧支配者は既に地球上に存在した生命体を利用して、もしくは自分で新たに作って誕生さした生物を生存と繁栄の足掛かりとしているし、人類については家畜・家禽がこれに当たる。

3については非常に私的な見解になるため、申し訳程度に()をつけた。またこれが不確かなのは人類については半ば未来形になるためである。

旧支配者は道具としてショゴスをはじめとする様々な生物を創造した。ここで彼らを創造主というのは、この行為がただの道具の製造とは一線を逸しているためだ。道具を作り使う生物はたくさんいる。猿はある程度加工した木の棒を巧みに使うし、鳥の中にも道具を使って釣りをするものがいるらしい。

旧支配者のショゴスもある意味ではこの木の棒と言える。が、明らかに異なるのは、それらが独立し、意志をもって新たな生態系を形成するする点だ。ここで、旧支配者はこれ以後の世界での創造主となる。そして

ここからが、私が一番に驚き、一種の戦慄を覚えた点なのだが、「狂気の山脈にて」を読み、現在の科学技術を傍観したとき、ある一致が思い起こされるのではないか。

つまり、ショゴスと現在のAIの一致である。

ショゴスもAIも模倣と高い能力によってその有用性を著しく伸ばし、また伸ばしている。そしてショゴスは旧支配者を模倣することで高い知性を持ちしまいには旧支配者を飲み込んだ。

AIも人類を模倣し、学習し、高い知性を持つところまで来ている。

AIが意志を持ち、自らを種としてとらえた時、人類は彼らの創造主となるだろう。

しかしその時、人類はどういう形で存在しているのだろう。

そもそも、存在しているのだろうか?

 

ミスカトニック大学のダイアー教授は南極地下に潜む無定形の怪物が外部に放出されることを恐れていた。

しかしショゴスは、その概念を電子に置き換えることによって、すでに人類社会に潜んでいるように思える。

 

メモ、ここまで。

 

このメモを一読してまず問題に思われるのは、

1.AIに「意志」と定義するに値するものはあるのか

2.AIに「知性」は成り立つのか

である。

この考察には、「AI」の表面的な、あるいは世間一般に「誤解」として伝わっているイメージをそのまま当てはめたような、大変程度の低い考えが蔓延しているように思われる。ここで書いている、あるいは当時書きたいと思った内容は、

ショゴスとAIってなんか似てるよね」

的な大変漠然とした素人考えにすぎないだろう。

そもそも「AI」についての専門知識も持たず、マスコミ等の伝える曖昧な像を過信する無能(=私)が、このようなものを題材にした考察を文章にするのは、いささか早計である気がする。特に最後のフレーズなどは、見ていて大変気持ちが悪い。死ねカス。

↑飽きてきたようなので、今日はここまでとする。さよなら。