原田のゴミタメ。

私が語ることは、すべて接頭に「私にとって」が与えられねばならない。我儘で、自分勝手で、醜く幼い私の誇大妄想。私的な論理の飛躍は決して万人に敷衍されてはならないが、万人が私の妄想を否定したとき、もはや私には生きる必要がないと思われる。せつに、そう思うのである。

個人的試論。

私が、一般に「悪い」と言われていることを人にする。

つまりは、他人に危害を加える。

すると私は(当人、あるいは関係者から)憎まれるだろう。

私は同じように危害を加えられるかも知れない。

あるいは、憎しみでもって、より苛烈な復讐を被るかも知れない。

私は上記を恐れる。私は危害を加えられたくない。

私は、「復讐されること」を恐怖する。

ゆえに、私は他者に危害を加えようと欲しない(私的な嫌悪から、するべきでないと想起する)。

 

以上のことは、およそ「道徳」という名で呼ばれているものがもたらす結果と同じではないか。

さらに言えば、「道徳」という名で擬装されているもの。あの独善的観念が真に本質としているのは、このあまりにも利己的な嫌悪や恐怖なのではあるまいか。

考えなければならない。